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ダ・ヴィンチが伝えた異次元空間 !?
会津さざえ堂(旧正宗寺三匝堂(さんそうどう))


 世界唯一の木造二重らせん
 レオナルド・ダ・ヴィンチが発案? 
 建物の中で旅をする

 

世界唯一の木造二重らせん

上りスロープと下りスロープを繋ぐ折り返し地点の太鼓橋。
六角の天井には無数の千社札が。
一体、何人の人がこの立体迷宮をくぐり抜けたのであろうか。

 会津のさざえ堂は、その名のとおり巻貝のような形をした木造の六角塔で、飯盛山の中腹に会津若松市街地を見渡す形で立っている。
 らせん状の堂内をぐるぐる回って参拝することから名前が由来する「さざえ堂」だが、この仏堂形式が登場したのは安永9(1780)年、江戸本所にあった黄檗宗(おうばくしゅう)(※1)「羅漢寺」(※2)が最初である。当時流行した百観音巡礼(※3)が困難な庶民のために「お参りすれば札所の百観音を拝んだのと同じ功徳がある」というさざえ堂が登場し、人々は簡単に手に入る御利益と不思議な3階建の建物に上れるという「楽しみ」を求めて殺到。その後さざえ堂は全国に広がっていったのである(※4)。これは純粋な宗教儀礼であった参拝自体が、娯楽化(※5)していった過程を象徴する出来事として注目される。
 そんな中、寛政8(1796)年、会津のさざえ堂が建てられた。内部の通路が二重らせん状になっていて、上りと下りの2つの通路がメビウスの輪のように表裏一体に合わさっている複雑かつトリッキーな立体迷宮。しかしこのような二重らせんによる参拝路を備えたさざえ堂はほかにない。

※1 黄檗宗・・・承慶3(1654)年中国から渡来してきた僧、隱元(いんげん)によって開かれた宗派。徳川家の援助を得て仏教界で隆盛を極めた。当時最新の思想やテクノロジーを保有していた。もちろんその中には土木建築の最新技術も含まれる。


※2 羅漢寺・・・羅漢寺にはこのさざえ堂のプロトタイプとでもいうべき五百羅漢堂が亨保13(1728)年に建てられていた。中央の本堂と本堂左右にある2つの羅漢堂が一体化したコの字型の内部が一方通行の参拝路で構成されており、3つの建物全てを一方通行の参拝路を歩く事によって1周できたという。しかもその参拝路は上客用の板張りの参拝路と一般用の土間の参拝路の2種類があり、互いの参拝路が太鼓橋などを用いて決して交わる事なく入り組んでいたというから驚くほかない。この五百羅漢堂とさざえ堂という2つの「仏教アトラクション」を備えた羅漢寺は、当時江戸の人気観光スポットであった。 現在、羅漢寺は目黒区に移転し、五百羅漢堂もさざえ堂も現存していない。


※3 百観音巡礼・・・関西地方の西国三十三ヶ寺、関東地方の板東三十三ヶ寺、秩父三十四ヶ寺に祭られている観音像のことを百観音といい、それら100ケ所の寺を巡礼すること。現在のような巡礼スタイルは17世紀後半に確立され、江戸後期には庶民の間にもその人気は広がった。


※4 各地のさざえ堂・・・群馬県太田市の曹源寺、埼玉県児玉町の成身院、茨城県取手市の長禅寺、青森県弘前市の蘭庭院にさざえ堂は現存する。そのほか、新潟県新潟市、栃木県茂木町、茨城県結城市、埼玉県小鹿野町、東京都台東区などにもさざえ堂があったとされ、東日本のかなり広い範囲に存在したと考えられる。


※5 参拝の娯楽化・・・江戸期には籠細工大仏などの娯楽的要素を多分に含んだ参拝が流行した。これは大衆文化の成熟により、より大衆に受け易い形態を採ったものと考えられる。前述の五百羅漢堂なども純粋な羅漢信仰というよりは「亡くなった人によく似た像が必ず一体はある」という大衆受けする噂によって流行したものだ。この「参拝の娯楽化」は現代まで脈々と続き、大観音や大仏の胎内巡りやテーマパーク化した仏教施設などに受け継がれていく。

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチが発案?

上り参拝路。右上天井部分は下り参拝路の床を兼ねている。
中央の芯柱の向うには下りのスロープが見える。

 「これは考案者の郁堂(いくどう)禅師と棟梁の山岸氏が、現場で討論を重ねた末に辿り着いた建築史上の突然変異的な建物です」。戊辰戦争、神仏分離令、廃仏棄釈運動といったさざえ堂受難の時代から現代に至るまで保護し続けてきた旧正宗寺の山主、飯盛家の正徳氏は、さざえ堂出生の秘密をそう語る。

さざえ堂の生き字引、飯盛正徳氏。今日までさざえ堂を保存してきた飯盛家の歴代諸氏の功績は見逃せない。


江戸後期の日本においてどうしてこのような複雑な構造を思い付いたのか、会津のさざえ堂を調査した故・小林文次氏(※6)によると、もともとレオナルド・ダ・ヴィンチが発明したとされる二重らせん図が巡り巡って江戸後期の日本の蘭画家に伝わり、そこから郁堂禅師に二重らせんのアイデアが伝わったのではないか、と考えられているようだ。
 「しかし当家には、郁堂禅師がさざえ堂発願の際、二重紙縒(こよ)りの夢を見たという伝承もあって、どちらが直接のヒントになったかは判らないのです」。現実味という点では後者に軍配が上がりそうな気がするが、いずれにせよ全体のコンセプトを最初に設定する建築技法というもの自体、当時珍しく、従来の日本建築の設計方法から近代的な設計方法に脱皮した初期の例であろう。その点においても、このさざえ堂は特異なのだ。

※6 小林文次・・・故人。日大理工学部教授。さざえ堂研究の大家。さざえ堂というジャンルが異端扱いされながらも日本建築史の1ページに加えられたのは彼の功績である。

 

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建物の中で旅をする

二重らせんのスロープがそのまま外部に現われた外観。

 早速、中に入ってみよう。右手に、かつて観音像(※7)が安置されていた厨子(ずし)(※8)を見ながら時計回りにスロープを上っていく。
 歩いていくと二重らせんゆえの不思議な出来事が次から次へと起こる。
 微妙に内側に傾斜したスロープを歩いていると平衡感覚が失われ真直ぐ立っていられなくなる。一方通行路なのに道に迷ったような気分のまま、最上部の太鼓橋を渡ると、下りスロープの始まりだ。
 上りスロープと同じような光景だが、全てが反転している。反時計回りで下り、厨子は左手になる。
 どこまでも連続したスロープが続いているので「ひょっとしてここから出られないのでは」という恐怖感を抱くが、意外とあっさりと外に出られる。出口は入口の丁度裏側だ。
 「さざえ堂世界」から現実世界に戻った時の不思議な感じは何と言ったらよいのだろう。小さなお堂なのに次々と我々の空間的常識が撹乱される。それはあたかも、巡礼中に感じる苦しみ、迷い、歓びすらも体験してきたかのような感覚。「建物の中を旅する」。そこがさざえ堂の最大の魅力と言えるのかもしれない。
 江戸後期に東日本を中心に沸き起こったさざえ堂ブームの生き証人として、ひっそりと佇む会津のさざえ堂。参拝の娯楽化と日本建築の近代化という2つのベクトルが偶然交わった1点に奇跡的に現れたこの建築の前で、飯盛氏は力を込めて語ってくれた。
 「100年後の人々も拝観できるよう、さざえ堂を保存していくのが私の使命です」。

※7 観音像・・・通常さざえ堂は100体の観音像を安置するものだが、ここのさざえ堂は33体。廃仏毀釈運動により観音像は散逸し、その後白虎隊十九隊士像が安置された時期もあったが、現在は「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられている。


※8 厨子・・・それぞれの厨子の前に設置された賽銭投入口は、賽銭(当時は洗米)が樋で1ケ所に集められ中央の芯柱部分を通って縁の下の1ケ所に集められる仕組みだったという。

 

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文/ルポライター 小嶋宏彰