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 TVドラマなんかを観ていてよく思うのだが、この頃、大切な物事を言葉にし過ぎる。
 例えば、昨日観たシーンは、主人公が恩人の遺体が運ばれていくのを止め、衆人の前で「あなたのことは絶対に忘れません」とつぶやく、というものであった。この脚本を書いた人は主人公を演じる俳優を信じていないのか?セリフにあるような心の内側を、表情や仕草や視線、そしてたたずまいでこちらに伝えるのが俳優の力量である。
 同時に、こうした説明過剰は、物語の傍観者である私たちの感覚をも軽んじている。どうせいわなきゃ判んないだろ、とたかをくくっているように感じるのだ。
 文章を書くという仕事をしていると、時々言葉というものが信用できなくなる。
 どんなにそれを重ねたところで、本当に伝えたいことなどここには書かれていないような、もっというと伝えたいことなど最初からなかったのではないか、という猜疑心で覆われる。
 映画「太陽がいっぱい」(※1)のラストシーンはそんな思いを取り払ってくれる。
 アランドロン演じるチンピラが完全犯罪を成し得て金と恋人を手に入れたと思い込み、太陽が降り注ぐ砂浜でくつろいでいる。浜辺にあるバー(海の家のようなもの)の店員が注文を取りにやってきて、具合が悪いのか、と聞く。するとチンピラは「太陽がいっぱいだ。今までで最高の気分だよ」と答える。
 その直後の場面で、私たちは彼の完全犯罪が崩れ去ったことを知る。まだ、「太陽がいっぱいだ」という幸福に満ちた声が耳に残っているうちに。
 この映画を見る度に、というより、このセリフを受け止める度に、心が痛くなる。階級の残酷さ、失恋の悲しさ、もしくは正義が遂行されたことの喜び。痛みの理由はそのどれでも当てはまる気もするし、どれでもない気もする。
 言葉の効用とはこういうものだと思う。
 具体的になっていない部分こそ、一番大切なものなのだ。本当に伝えたいことは、どんなに言葉にしたくてもできない。だからこそ、人は言葉を捜す。少なくとも、私はそう信じたい。言葉を商売道具とする者として。
 私は原稿を書く時パソコンを使う。名前を出して何かしらの表現をする場合、活字業界では、なんとなく手書き原稿のほうがありがたい、という風向きが少しばかりある。じょうだんじゃないよ、と思う。パソコンだから、万年筆なりボールペンなりを握り締めていないから簡単に言葉を吐き出している、という偏見にうんざりする。道具によって左右される言葉など、最初から書かれても書かれなくてもどちらでもいいものなのだ。
 説明過剰は情報ツールの発達が根本的な要因ではない。真に伝えたいことなど、実はそんなに多くはないからだ。
 本当に大切な物事、それは言葉と言葉のあいだに存在する。読むべき言葉、聞くべき言葉は目で見えないし、耳では聴こえない。だからこそ、心を刺激するのである。

 

※1 映画「太陽がいっぱい」
1960年に公開されたサスペンスの名作として名高いフランス映画。監督は「禁じられた遊び」でも有名なルネ・クレマン。主演俳優であるアラン・ドロンのあまりの美しさと、強烈なラストシーンで一世を風靡した。