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 昔はよかったとぼやくような大人にはなりたくないと、私はつねづね思っていた。今だって思っているが、しかし、昔はよかった、と思わざるを得ないことが1つある。昔、と言ったってかれこれ十数年前。不便だったり、やっかいだったり、むかついたり、落ち込んだり、いろいろあったけれど、それでも、声を大にして言おう、本当に昔はよかった。

 そのころ私は20代あたまで、コンピュータはもちろん、ファクス機さえ持っていなかった。それでも仕事はしていたので、ワープロで原稿を書くとそれをいちいち、編集者に取りにきてもらうか、編集部まで届けるか、していたのである。原稿を渡すと一言で言っても、何かの密売のように手早く済むものではない。お茶を飲んで世間話をして、ときには目の前で原稿を読まれもし、その場でけちをつけられもし、そしてまた世間話をして別れる、かように時間と手間と精神力のかかる作業であった。校正刷りが出るとまた編集者と会い、手直しをしてまた編集者と会う。ともに仕事をしていた編集者各氏の、当時の恋愛事情に私が精通しているのは、この頻繁な会合の故である。

 コンピュータが家にきて、さらにそれで原稿を送ることを覚えたとき、ドラえもんを家に迎えたのび太の心持ちだった。近未来が家にきたと思った。100枚書こうが500枚書こうが、印刷する手間はいらず、編集者に会いにどこかへ出向くことはせず、編集部が京都だろうが神保町だろうが、原稿を一瞬で送ることができる。

 これはなんというか、すごいことではないか。
 私は現在、原稿のほとんどすべてをメール送信している。結果、編集者に会い、お茶を飲み、世間話をし、恋愛事情の続編にさぐりを入れ、その場で原稿を読まれ駄目出しをされ云々にかかる時間すべて、原稿書きにあてることができる。1日じゅう家にいる。十数年前の私が見たらびっくりする量の仕事ができる。

 しかし、である。短縮されたのは時間だけではない。人の顔もまた、省略されている。メールで原稿が依頼されメールで原稿を送る。人に会う時間が必要ない、ということは、人と向き合う必要もないということなのだった。実際、今かかえている仕事のうち4割は依頼者の顔を見たことがない。5割は1年以上前に会ったのみ。9割の担当者の、現在の顔、年齢、趣味、嗜好、編集部における位置と意義、仕事に向かう姿勢、等々、知らない。恋愛事情など推測する余地もない。そんなもの、知らなくたって当然仕事はできる。実際、している。ほんとうに世の中、便利になったもんだ。

 私はときおりその便利さの片隅で、これじゃ個室に軟禁された回転寿司職人だよ、と思ったりする。ちいさな部屋で延々と寿司を握り、コンベアにのせ続ける。コンベアは部屋にうがたれた穴から外界へ出ていくが、その寿司を食らうのが男なのか女なのか、象なのか猿なのか、うまいのかまずいのか、永遠に知ることはない。知ることは仕事ではない。寿司を握ることだけが課せられているのだから。こんな気分。

 きっと世の中はもっと便利になっていくだろう。人と向き合うことの煩わしさは極限まで省略されていくだろう。だから、私は言い続けなければならない。なりたくなかった典型の大人になって、昔はよかったとぼやき続けなければ。

 面倒を押して会って、飲みたくもない茶を飲んで酒を飲んで、年齢も趣味もちがう相手との共通点を懸命に捜して、恋愛事情などこっそりうち明けあって馬鹿笑いして、生意気を言われてむかついて生意気を言いかえして、ぶりぶりしながら地下鉄に乗って家路をたどるあの時間の、なんと無益なことか。そこから生じた原稿の、なんといとしかったことか。

 つい先日、ある編集者から電話を受け、彼は彼のペースで話をして電話を切ったのだが、切ったのち、ずいぶん非礼な電話であったと思い至った。コンチクショウ、と胸のうちで悪態をつこうとし、しかし怒る気はすぐ萎えた。その編集者の顔を知らないことに気づいたのである。