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9年前、26年勤めた銀行を退職。
その後、コンサートツアー、ニューアルバムのリリース等の音楽活動、15年続いたミュージカル劇団「アルゴ」、その卒業生での「エルダ」、日本の新しい歌唱舞台「歌綴り」に代表される舞台制作、脚本創り、執筆活動と多忙な日々を過ごしてきた。
中でも小椋さんらしい足跡の1つに母校への再入学がある。退職の翌年、東京大学法学部に学士入学、そして卒業。さらに1年の受験勉強の後、文学部思想文化学科哲学専修課程に学士入学を果たす。
銀行を辞めた後の生活姿勢を小椋さんは「テオリア(観想)」と言っている。「テオリア」とは古いギリシャ語で「Theater(劇場=観る)」や、「Theory(理論)」の語源となった言葉。「よく観て、よく想う」。
時代を観、自分を見つめ、想いを広げて、人間の根元のところから考え直してみたいという。
僕なりの言葉遣いをさせてもらうと「自己選択的人生」というか。好むと好まざるとにかかわらず、そういう時代が始まっている。組織とか集団の価値構造に組み込まれて幸せになれるという時代は過ぎ去ろうとしている。それは人間本来の形のはずですよね。だから決して悪いことではないけれど厳しいことですから。そういう厳しさの中で今の若者は生きていかなければいけない。
そこでちょっと今の20代、あるいは30代の人たちに同情的にならざるを得ないのは、日々良くなっていった時代を育っちゃったから二重の問題がある。何とかなるさと、自分が努力しなくたって苦しみは求めなくても、避けておけば何とかなるさ、というそういう育ち方をしてしまった時代ですから、これからどんどん厳しくなりますから可哀相だと思うんですよ。
それから自己選択的な生き方をしなくてはならなくなった時に、自分らしく生きることを問わざるを得ないでしょ。自分らしくとういうことを問う時には、まず自分って何だっていう問いがくる。でもそのプロセスには言葉が必要。ところが時代的に言えば言葉を喪失していった時代に育ってしまった世代だと思う。だから突然、自分って何だと言葉で掴もうとしても、その言葉を持っていない、思考する言葉を持っていない、そういう人たちなんですよね。だから可哀相だなって思いますよ。それはその人たちのせいじゃない。時代の1つの流れがそうなっている。僕ら先輩世代は言葉だけが主役だった時代で、僕らの世代に言葉への不信が始まったんですかね。「言葉だけに依存してると危ないね」という話に。だから僕が歌表現をしたというのは僕が僕という同じ人物で10年前に生まれていたら文章を書いていたかもしれません。言葉への不信、あるいは限界というのを感じて音的なものを取り入れて歌という表現になったのかもしれない。別の人は映像とか絵とか色とか音の世界にみんな表現の手段を求めていったんでしょう。でも若者は次々と前の世代を否定して登場しますから、内容もそうですが表現形式も否定しますね。そして言葉不信から言葉無視の時代に移行していく。それをマスコミは「感性の時代」と言った。それでずっと今2、30年きているから、その世代に生まれて育ったから言葉を使わない方がかっこいいんですよ、当然ですけど。変に言葉をこねくりまわしているとモテないんですよ。そういう日々豊かになっていった時代に育ったから、言葉という精密な武器を持たない。しかも苦労に立ち向かおうという姿勢がないですよね。欲しいものだけつまみ食いしていればいい。
ただ、若者は常に前の世代を否定して登場してきますから、そうするとここまで感性の時代が突き進んじゃって、言い方を変えると“曖昧コミュニケーション時代”が続いちゃう。それを否定して新しく登場してくる今幼年期にある少年たちが使う武器は何だろうとすると、また言葉の復権というのが考えられる。姉貴、兄貴たちはただいい加減に生きただけじゃないかという反骨精神を持った幼年期が育つとそこで、使う武器は言葉が復権するだろうと。そこにはちょっとした期待を持ちたいなと思います。
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