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 1976年10月7日 東京渋谷のNHKホールで1つのコンサートが開かれた。
 静まり返った4,000人の聴衆を前に地味なビジネススーツに身を包んだ長身の銀行マンが自作の歌を歌い始めた。
「シクラメンのかほり」。前年、歌手布施明がレコード大賞をはじめ様々な音楽賞を受賞した歌。
 当時どこにいても聴こえてきたその歌が彼の喉を通して会場に流れるとまったく別の歌を聴いている趣があった。
 何の装飾もない透明な声。まっすぐやってくる歌に込められた想い。鋭利な言葉が1つとして含まれていない女性的ともいえる歌詞にむしろ感じたのは「男らしさ」だった。
 それが、数年に渡って若者たちに熱い支持を受け続けてきた姿無きシンガーソングライター小椋佳さん(当時32歳)が私たちの前に姿を現した最初だった。

 

仕事・音楽 中心は1つ

 

「疎外」の真ん中へ

中にいると一生懸命になる

 

勉強なんかやめな!

受け継がれる血

 

生きようとする力

「観よう」とする想い、「想おう」とする想い

どうせ生きるならば

 

エピローグ

 

仕事・音楽 中心は1つ

 

「シクラメンのかほり」前後の数年、小椋佳さんには幾つかのキーワードがつきまとう。「エリート銀行マン」「売れっ子シンガーソングライター」「東大法学部卒」

 当時、一般的に言われたのは“二足のわらじ”という言い方ですよね。別世界のことを2つやっているという。だけど僕にはそういう感覚はまったくなかったです。僕なりの言い方をすると“同心円的”です。一番いい例えは日記ですか。「日記をつけてる人間がよく銀行員もやってますね」とは絶対言われないでしょ。そういうものなんです。生業(なりわい)として歌の世界を考えてたわけではなく、自分の創りたい作品を創って、たまたま僕の場合は発表の場も与えられ続けましたから、そういう意味では幸運な男だったと思います。独りよがりで創ってることは何かを創造するのとは違いますから、そういう意味では日記をつけることと詩を創ることはまったく違うことですけど。だから別次元を生きてるなんていう感覚はまったくなくて、自分の考え方・想い、暮らしぶりの中から生まれてきた詩曲です。それから物理的にいっても、僕は1曲だいたい3時間なんです。年間創るのが5、60曲ですから、歌づくりにかける時間はせいぜい150時間から200時間弱なんですね。一方サラリーマン生活はどうかというと、みなさんそうでしょうけど、当時でいうと、1,800時間が規定時間でしたが、必ず毎晩宴会があり勉強会があり、交流がありますよね、仕事がらみの。そうすると銀行員というビジネスの世界で自分が使ったのは年間2千数百時間です。そうすると10対1ですから、2つのことをやっているなんて感覚はまったくなくて、生業としては間違いなく銀行員をやっていて、プライベートな部分でそれこそトイレに行くように、食事をするように、あるいは運動をやるように歌を創っていましたね。

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「疎外」の真ん中へ

 

 音楽活動を始めたのは大学の後半から。創造的な世界に憧れを持ち始めていた。そうした世界の人たちと付き合いを少しずつ広めていきながら、同時に自分自身に何もないことに気付く。絵を描き、小説を書き、舞台美術を勉強するが自分の中に手応えがない。まともに音楽を学んだことがない。楽譜も読めない。そして卒業。日本勧業銀行に入行する。

 僕の場合は意地みたいなもんですか。銀行という職業を選ぶ段階で、どうして自分が銀行員なんかになるんだと。男っていうのはアホだから自分を正当化したいでしょ、生き方を。本当のことを言うと7割8割成り行きで選んだ職業かもしれないですね。ただそれだけでは自分で納得できないですよね。人によりますけど、僕の場合も職業選択というのを自分なりに正当化したかったんでしょう。当時のアウトサイダーと言われる芸術家の生き方は僕には生活としてはできない。で、自分なりの理由付けですけど、当時企業資本主義と言われた時代、企業中心として資本主義社会がますます進行していった時代。人間の問題として「疎外」ということが一番大きなテーマで取り上げられていましたね。あとの時代では「個の喪失」なんて言い方をするようになりましたけど、当時でもすでに人間が本来自分として生きていく状況を失っていく管理社会・組織社会がどんどん進んでいるっていうのが社会的にも言われていた時代ですね。だから自分は疎外されてしまう個というか、疎外されてしまう人間の典型的な生き方をしてみよう、ということは組織内存在といいますか。

 銀行員というのはサラリーマンとしては疎外される人間の最たるものですから、その中に生きてみて、そこでうごめく自分自身、周囲の人間たち、あるいはもうちょっと広げて社会と見たときに、その暮らしを続けながらそこで自分なりの何か創造的なことをし、表現の場を持つという、それが自分の生き方だと。アウトサイダー芸術家ではなくインサイダー芸術だと、そういう生き方が僕の生き方なんだと。そういうことを大学で所属していたクラブ活動の「法律研究所」のコンパで大言壮語してました。

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中にいると一生懸命になる

 

 入行後、銀行での勤務をするかたわら音楽活動を続ける。
 アルバム(当時のLP)制作だけに絞った形で、「シクラメンのかほり」以前の数年間で3枚のアルバムをリリース、「小椋佳」という名前は若者たちの間に浸透していた。中でも「彷徨」(さまよい)というLPは5年間で100万枚を超えた。暮らしていく経済的基盤は既に「シクラメンのかほり」以前に確立されていたといえる。しかし小椋さんが銀行を辞めることはなかった。自著で小椋さんは「男が仕事をやるのは出世や金の為だけではない」と書いている。

 みなさんそうでしょう。仕事やって、出世のためだけとか金のためだけにやってると、もたないんじゃないですか。やっぱりいい仕事をしたい、面白く仕事をやりたい。中にいると一生懸命になりますよ、誰でも。僕自身もそうでしたけど。毎日毎日が楽しかったかは別として、これこそと思える仕事がいくつか回ってきますよね。例えば世界でプロジェクトファイナンスというのがようやく始まった頃、オーストリアのエネルギー開発に対するプロジェクトに関することを、検討してくれと言われて、時の第一勧銀で僕が第1号でしたから。当時は何十億という金を無担保で融資するのに、将来収支は見込めるか、キャッシュフローとして借金は返してもらえるか検討するわけですね。知らないから急遽勉強し、プロジェクトの客観的な視点、それからリスクへッジはどう捉えているかとか、それをだいたい1週間ちょっとで結論を出さなきゃいけない、まったく徹夜ですね。孤独な戦いですよ、頼る人いないから。

 そういう仕事とか海外の企業の200億の社債を日本で発行するのに17冊にもわたる約定書を半年間かけて作ったりしました。ほとんど弁護士事務所に付きっきりでいて、シカゴへ飛んで1週間朝9時から夜9時まで相手の会社とやり取りするわけですね。そういうものも第1号でしたから、意気に感ずるでしょう。そういうことっていくつもいくつもありました。

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できれば自分の中に核と言えるようなものがあって、その核から自分の全ての行為が放射されていると意識できるような生活状況でありたい。

 

勉強なんかやめな!

 

 1944年、東京上野に生まれる。実家は料理屋を営んでいた。父親は真面目、苦労性、慎重、昔かたぎ。いつも考え事をしていた。料理屋の亭主には向かない人だった。酒は一滴も飲めず、口下手、お客さんに挨拶することもできなかった。母親は正反対の性格。身勝手でわがまま、知性や教養を認めなかったという。夜中勉強机に向かっていると、「辞めな!辞めな!身体を壊すよ。早く寝な!」といきなり怒鳴り込んできたりした。「人間好き」「賑わい好き」「大勢に慕われる」母親を見直すことができたのは20歳を過ぎてからだった。

 父は若い頃、琵琶を師範として教えてたんだけど、僕が生まれて以降は人前では歌わなかった。20歳前後の頃は自在に咽喉が使えたけれども、今や人に聴かせる歌じゃないということで、恥を知るというんですかね。一切人前では歌わなくなった。1人ではよくやってましたから、僕もそれを聞いて育ったんですけど。とても引っ込み思案で。だから慎重な父の血を受けてるというのは間違いないんですが、血でいうと母のも受け継いでます。母は生粋の江戸っ子、出たがりやです。無計画、無鉄砲、けんか大好き。危なっかしい性格が僕にも入っているんでしょうね。

 だいたい父の血を受けていただけなら、歌が大好きで自分で何かいい歌を創っても発表することはなかったと思います。詩を出すということ自体は内面の吐露であって、自分の心の中をある種さらけ出すわけですから、いい作品であれくだらない作品であれ。それやっちゃうというのは母の血でしょうね。子供ってうまくしたもんで両親の血がちゃんと混ざって入ってるんだなと。

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父は若い頃、琵琶を師範として教えてたんだけど、 僕が生まれて以降は人前では歌わないんだ。

 

受け継がれる血

 

 22年前、アメリカの子供たちを集めて「キッズ」というミュージカルを3年間日本で公演した。それから7年後、今度は日本の子供たちを集めて夏休みの間公演して回る「アルゴ」を結成。リスクの大きい舞台づくり。こうした活動の中にも両親から受け継いだ血を感じることがあると言う。

 創作ものの芝居、舞台。これはたいへんなお金と時間とエネルギーと労力を使います。どこかで博打のようなとこがありますね。父の血を受けてるだけではとてもできなかったと思う。まして銀行員的に考えれば。でもやっちゃうというのは母の血だと思いますね。「キッズ」でいうと、当時のお金で4億出てって、入ってきたのが3億5,000万ですからね。じゃそういうことを一切止めるかというと止めないわけですね。

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生きようとする力

 

 15年前、小椋さんの次男宏司さんが脳梗塞で倒れた。当時14歳だった。小椋さんの活動史を重ね合わせてみると子供たちのミュージカル劇団「アルゴ」結成とほぼ同時期になる。ミュージカルの厳しいオーディションを通過してきた子供たちとの稽古。溌剌として機知に富みキラキラと輝く少年少女たち。一方、病床で半ば植物人間となってしまった同年代の息子。そんな2つの情景が隣合わせにあることが小椋さんのある1日の中になかったか。

 一緒ですよ。「アルゴ」の子たちだってそれぞれ問題を抱えています。親御さんの問題だったり、勉強の問題抱えていたり、でも言ってみれば共通するのは人間の生命力ってすごいなって思いますよね。生きようとする力っていうか。

 僕なんかたいして立派な人間じゃないですけど。僕は昨年胃ガンで手術をしまして今だに苦しんでいるんですけど、苦しみの一方で遅々たる歩みだけど少し自分が変わってきますよね。健康回復というか。手術が終わってからひと月でステージが始まっちゃいましたけど、最初の頃やっぱり腹筋がもたない、息がもたないで歌えないというのがあって、声が出るようになって歌えるようになって。それと同じように十数年前に息子が倒れて全身不随が始まって、立てるようになった、体が動き出した、歩けるようになった、言葉も復活してきたと。十数年経って、いろいろ途中、息子の自己人生をどう切り開いていくかというのを親として苦しんだり悩んだり、試行錯誤してきた。でも今や次男坊も自分の自尊心を充足させる、要するに誇れるだけのものを生業として見つけたんです。そういう最も酷い、辛いことがあったけど辛さの中でも良くなってきたという喜びはあるわけです。

 なおかつ今年の11月末に僕がとっても気に入った女の子と結婚するんですよ。たまたま彼が見つけてきた女の子が、僕がとっても気に入った子だったんです。

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「観よう」とする想い、「想おう」とする想い

 

 9年前、26年勤めた銀行を退職。
 その後、コンサートツアー、ニューアルバムのリリース等の音楽活動、15年続いたミュージカル劇団「アルゴ」、その卒業生での「エルダ」、日本の新しい歌唱舞台「歌綴り」に代表される舞台制作、脚本創り、執筆活動と多忙な日々を過ごしてきた。

 中でも小椋さんらしい足跡の1つに母校への再入学がある。退職の翌年、東京大学法学部に学士入学、そして卒業。さらに1年の受験勉強の後、文学部思想文化学科哲学専修課程に学士入学を果たす。

 銀行を辞めた後の生活姿勢を小椋さんは「テオリア(観想)」と言っている。「テオリア」とは古いギリシャ語で「Theater(劇場=観る)」や、「Theory(理論)」の語源となった言葉。「よく観て、よく想う」。
 時代を観、自分を見つめ、想いを広げて、人間の根元のところから考え直してみたいという。

 僕なりの言葉遣いをさせてもらうと「自己選択的人生」というか。好むと好まざるとにかかわらず、そういう時代が始まっている。組織とか集団の価値構造に組み込まれて幸せになれるという時代は過ぎ去ろうとしている。それは人間本来の形のはずですよね。だから決して悪いことではないけれど厳しいことですから。そういう厳しさの中で今の若者は生きていかなければいけない。

 そこでちょっと今の20代、あるいは30代の人たちに同情的にならざるを得ないのは、日々良くなっていった時代を育っちゃったから二重の問題がある。何とかなるさと、自分が努力しなくたって苦しみは求めなくても、避けておけば何とかなるさ、というそういう育ち方をしてしまった時代ですから、これからどんどん厳しくなりますから可哀相だと思うんですよ。

 それから自己選択的な生き方をしなくてはならなくなった時に、自分らしく生きることを問わざるを得ないでしょ。自分らしくとういうことを問う時には、まず自分って何だっていう問いがくる。でもそのプロセスには言葉が必要。ところが時代的に言えば言葉を喪失していった時代に育ってしまった世代だと思う。だから突然、自分って何だと言葉で掴もうとしても、その言葉を持っていない、思考する言葉を持っていない、そういう人たちなんですよね。だから可哀相だなって思いますよ。それはその人たちのせいじゃない。時代の1つの流れがそうなっている。僕ら先輩世代は言葉だけが主役だった時代で、僕らの世代に言葉への不信が始まったんですかね。「言葉だけに依存してると危ないね」という話に。だから僕が歌表現をしたというのは僕が僕という同じ人物で10年前に生まれていたら文章を書いていたかもしれません。言葉への不信、あるいは限界というのを感じて音的なものを取り入れて歌という表現になったのかもしれない。別の人は映像とか絵とか色とか音の世界にみんな表現の手段を求めていったんでしょう。でも若者は次々と前の世代を否定して登場しますから、内容もそうですが表現形式も否定しますね。そして言葉不信から言葉無視の時代に移行していく。それをマスコミは「感性の時代」と言った。それでずっと今2、30年きているから、その世代に生まれて育ったから言葉を使わない方がかっこいいんですよ、当然ですけど。変に言葉をこねくりまわしているとモテないんですよ。そういう日々豊かになっていった時代に育ったから、言葉という精密な武器を持たない。しかも苦労に立ち向かおうという姿勢がないですよね。欲しいものだけつまみ食いしていればいい。

 ただ、若者は常に前の世代を否定して登場してきますから、そうするとここまで感性の時代が突き進んじゃって、言い方を変えると“曖昧コミュニケーション時代”が続いちゃう。それを否定して新しく登場してくる今幼年期にある少年たちが使う武器は何だろうとすると、また言葉の復権というのが考えられる。姉貴、兄貴たちはただいい加減に生きただけじゃないかという反骨精神を持った幼年期が育つとそこで、使う武器は言葉が復権するだろうと。そこにはちょっとした期待を持ちたいなと思います。

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どうせ生きるならば

 

 毎年、「アルゴ」の公演が終わると一旦は止めようかと思い、思いとどまって15年、続けてきた。

 こんな無駄遣い。時間は取られる。労力は取られる。金も取られる。でも稽古場行って、少年少女たちを見ていると、生命力っていうののすごさを感じるわけですよ。そうすると僕自身がまだ幸か不幸か生き延びている中にあって、生き延び方としては1つの考え方として、あの少年少女たちの生命力とやっぱり競い合うつもりにならなきゃだめだなという気がしてくるんですよね、どうせ生きるならば。“気”をもらうというんですかね。それがあってやっているようなもんですね。上手に生きようと思ったら止めたほうが楽なんですよほんとに、ミュージカルなんてものは。でもやるっていうのは何なんだろうかと。あの生命力と向き合って競い合うつもりで生きてみようという、そういう“気”をもらえるという。

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4半世紀に及ぶ銀行員生活を終えた時、1つの句読点を打つように「流されはしなかった」という曲を創った。

早い流れ 急な流れ 若さを抱え
僕らは ボートを降ろし 敢えて挑んだね
川下から 川上へと 流れに逆らい
決して 楽は望むまい それを誓ったね
僕らを あの日襲った囁き
川に飲み込まれるな 下るなと 聞いた
信じてみたんだ 漕ぎ上る先の 夢を

(2番略)

僕らは 今や挑み終えた川を
見限ることにしよう 新しい流れ
信じてみるんだ 自ら生み出す 夢を
祈るとしようか 残された時(とき)の 夢を

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聞き手/ルポライター 津川宏幹