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 一つの建物を巡る政治と文化とが「鹿鳴館時代」という歴史のエポックを出現させた。このように建物の名前を冠して呼ばれた時代は他に例がない。しかしこれほど有名なのにその実態はあまりよく知られていない。まるで名前だけを残して実像は歴史の闇に紛れてしまったみたいに。
 明治維新。開化の怒涛を浴びながら、鹿鳴館はどのようにして建てられ、使われ、忘れ去られて行ったのだろうか。


■まぼろしの鹿鳴館
■本格的な西洋建築と英国人コンドル
■エキゾチックな失敗作だったのか?
■西洋文明の情報センターとして
日本建築学会所蔵

 

●まぼろしの鹿鳴館

 両国の江戸東京博物館。その文明開化ゾーンに鹿鳴館の模型が常設展示されていて、来場者の人気を呼んでいる。
 夕闇が迫ると窓に煌々とガス燈が灯り、馬車の響きが近づいてくる。やがてワルツの楽奏とともに建物の屋根がスライドして開くと、2階ホールが見える。きらびやかな夜会服で踊る紳士淑女。その周囲には大礼服姿の日本人や、燕尾服の西洋人、僧服風の西洋人、辮髪の中国人等が立って歓談し、壁際には和服の奥方たちが椅子に腰掛けダンスを観ている。また貴賓席には雛人形のような衣装の宮廷女性たちの姿も見える。この人種も服装もチグハグな印象の一場面こそ、鹿鳴館の姿を如実に再現しているといえる。
 同博物館の解説書によると復元にはかなり苦労したらしい。鹿鳴館は設計図が残っておらず、わずかに簡単な平面見取り図があるだけ。また写真も昭和初期に撮影されたものが多く、外観・内観ともに竣工当時の面影を伝えるものは数葉しか残っていない。従って外務省に残る鹿鳴館の建築費の見積書から工事の内容を類推しデザインを起こすこともあったらしい。まさに「幻」の建築物といえる。

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●本格的な西洋建築と英国人コンドル

日本建築学会所蔵  


 開国時に列強諸国と結んだ屈辱的な不平等条約を改正するために、明治政府は(司馬遼太郎の表現によると)血みどろの努力を続けた。欧米列強と対等に交渉するには日本の文明を開化しなければならず、それを国内外にアピールするファシリティーとして鹿鳴館が計画された。
 開国とともに西洋風の建物はいくつも建てられていたが、それらは後に「擬西洋建築」と呼ばれるように正統な西洋建築とはいえないものだった。政府のお雇い西洋人たちの指導によって建てられたのだが、彼らは建築家というよりも職人に過ぎなかった。そこで外務大臣井上馨は本格的な西洋建築を日本に根づかせるために、工部大学校に造家学科(現在の東大工学部建築学科)を新設し、その教授としてイギリス人ジョサイア・コンドルを招請する。明治10年コンドル25歳の時だ。
 コンドルは英国の権威ある設計コンテストでトップ入賞を果たしたばかり。まだ実作経験こそなかったが新進気鋭の建築家として前途は洋々としており、ヨーロッパにいくらでも活躍の場があったはずだ。が、なぜ極東の小さな島国の招請に応じたのだろう。その後67歳で没するまで42年間を日本で暮らし、日本女性と結婚し、浮世絵師・川鍋暁斎(*1)に弟子入りするほど日本文化に傾倒した彼にとって、日本は生来のエキゾチズムを満たしてくれる地だったに違いない。
 また、なぜ明治政府が実作経験のない若者に白羽の矢を立てたのかも疑問として残る。しかし日本に赴任したコンドルは良く任に応えて学生に西洋建築を体系的に指導し、後に「日本近代建築の父」と呼ばれるように、辰野金吾(*2)、片山東熊(*3)、曽根達蔵(*4)など日本の草分け的な近代建築家を育てていく。その一方で工部省営繕局顧問として上野博物館、東大法学部講堂、ニコライ堂等の設計を手がける。

 

*1 川鍋暁斎(かわなべ きょうさい)(1831-1889)
 幕末から明治前半期の時代を代表する画家。浮世絵のほか、戯画、額絵など画風領域は広範囲だった。

*2 辰野金吾(たつの きんご)(1854-1919)
 工部大学校造家学科(後の東京大学工学部建築学科)第一期卒業生。 32歳で日本人としては初の同大学教授に就任。
 ヨーロッパ古典主義様式の代表作、日本銀行本店(1896)や東京駅(1914)をはじめ手がけた建築は200を越える。建築学会・教育界に君臨した。

*3 片山東熊(かたやま とうくま)(1853-1917)
 工部大学校造家学科(後の東京大学工学部建築学科)第一期卒業生。代表作に迎賓館赤坂離宮(東宮御所)(1909)など官邸および皇族・華族関係の邸宅がある。

*4 曽根達蔵(そね たつぞう)(1852-1937)
 代表作、三井住友銀行小樽支店(1927)は関東大震災の直後に設計。耐振性のある鉄骨鉄筋コンクリート構造を採用した。ほかに慶応大学図書館・東京海上ビル・郵船ビルなど。

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●エキゾチックな失敗作だったのか?


 鹿鳴館は明治16(1883)年、麹町区内山下町(現在の帝国ホテルの南隣) に竣工。「外国人接待所」という当初の名称が示すように迎賓館だが、本格的な西洋建築の実現を期して、2年半の工期と14万円(18万円の説もある)という破格の建設費を投入。同時期に竣工した外務省の建設費が5万円だから、いかに豪華建築だったか推測されよう。
 8,352坪という広大な敷地に池を配し、武家屋敷門をくぐると池の向こうに本館がそびえるというレイアウト。外観はレンガ造りで1、2階をアーケードベランダとし、窓や出入り口をアーチ型で統一したルネッサンス調の意匠を採っていたが、ベランダのアーチを支える二階の柱は、徳利のようにくびれ、ヤシの葉が柱頭を飾り、手すりにはアラビア模様の透かし彫りを施すという、インド・イスラム風の意匠も採り入れていた。

 こうしたエキゾチックな意匠はコンドル自身の考えによる。つまり、外国人を接待する場はその国の文化を反映したものがふさわしい。西洋と日本との中間としてインド・イスラム風に・・・というのだが、明治政府にとってそれは要らぬお節介に過ぎなかった。列強諸国に対して「西洋人も目を見張るような本格的な西洋建築を示し不平等条約の改正を図る」という日本人の必死の思いを彼は汲み取ることができなかった。井上馨は何度もコンドルの設計プランに駄目出しをしたらしいが、洋行経験があったとはいえ建築には詳しくなく、これがロンドンにも建っている本格的な西洋建築だと思ってゴーサインを出してしまったのだろう。コンドルは設計時、来日してまだ3年、「日本と西洋の掛け橋に」と理想に燃える28歳の青年には無理のないことでもあったのかもしれないが・・・。舞踏会に出席したフランス人ピエール・ロチ(*5)は「どこかの温泉町のカジノに似ている」と皮肉に評している。また後世の建築史家たちの評価も概ね「チグハグな印象」とされ芳しくない。さらにコンドル自身も鹿鳴館については口を閉ざし感懐を述べていない。
 内部に目を転じてみよう。総建坪466坪。正面中央に玄関、1階には談話室、新聞室、大食堂等の共用施設と、厨房や玉突所等の付属施設を併設している。2階は三つ折れの大階段を上った正面に舞踏室として使われた広間、その両翼にサロンや、貴賓室が配され、さらに宿泊用の部屋がいくつか並んでいる。舞踏室は42坪。両翼のサロンとは折り戸で仕切られ人数が多い時には3室ぶち抜きの大広間になったというが、板張りの床で踊ると揺れたらしい。ピエール・ロチによると「落っこちそうな気がして、内心いつもびくびくもの」だったそうである。


 だがコンドルは常に基礎を重視し、鹿鳴館の施工に際しても軟弱な地盤に耐えうるように松材を格子型に敷き並べ、ボルトで締めてコンクリートをべた打ちにする「筏地形」という基礎工法を用いた。日本に初めて耐震設計という概念を導入したのも彼で、地質調査や、材料・工法の試験に力を傾けた。東大工学部構内に立つ伊藤忠太(*6)デザインによるコンドル像の台座基部には、地震の象徴とされる2匹の鬼が這いつくばっているが、それは彼の耐震技術面での貢献を顕彰したものだろう。

 

*5 ピエール・ロチ(Pierre Loti)
 フランス海軍士官。小説家。 1885年に艦長・海軍大尉として初来日。日本を訪問した際の紀行文『秋の日本』(角川文庫)や小説『お菊さん』(岩波文庫)などの著書がある。

*6 伊藤忠太(いとう ちゅうた)(1867-1954)
 建築家・美術史家。 明治神宮、出雲大社、築地本願寺など多くの建築物を設計監督する。

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●西洋文明の情報センターとして


 後世鹿鳴館は、舞踏会ばかりが取り上げられ「猿真似」として戯画化されたが、その他にも洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られたが今日のカルチャースクールと変わりはない。つまり西洋文明の情報センターとしての役割を果たすホットスポットだった。その反面、西洋化に反発する国粋主義の壮士たちが周囲を徘徊する物騒な場所でもあった。
 しかし華やかだったのは開館からわずか4年間に過ぎない。必死のアピールも効なく、不平等条約の改正は遅々として進まず、明治20年に井上馨が外務大臣を失脚してからは、舞踏会も間遠になり、やがて人々から忘れ去られて行く。そして明治27年には華族会館に払い下げられ、大正12年の関東大震災にもよく耐えたが、その後は民間会社の手に渡る。そして昭和15年、太平洋戦争を前にして解体される。ビル用地の不足というのが表向きの理由だが、おそらく国辱的な建物だ、という理由もあって・・・。

 

東京・日比谷オフィスビルの一角に、ひっそりとたたずむ「鹿鳴館石碑」。昼ともなればオープンデッキに多くの会社員やOLが集まるこの場所に、鹿鳴館が建っていたことを、一体どれだけの人たちが知っているのだろうか。

 

*参考文献
  「鹿鳴館 擬西洋化の世界」富田仁(白水社)
  「鹿鳴館を創った男 お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯」畠山けんじ(河出書房新社)
  「明治の建築」桐敷真次郎(本の友社)
  「鹿鳴館」飛鳥井雅道(岩波ブックレット)
  「鹿鳴館婦人考」近藤富枝(講談社)
  「復元鹿鳴館・ニコライ堂」東京都江戸東京博物館監修(ユーシープランニング)
  「鹿鳴館の夢」INAXギャラリー
  「明治洋風宮廷建築」小野木重勝(相模書房)
  「横浜・都市の鹿鳴館」鈴木智恵子(星雲社)
  「西洋館への招待」太陽304号(平凡社)
  「ニュースで追う明治日本発掘 3」鈴木孝一(河出書房新社)
  「秋の日本(江戸の舞踏会)」ピエール・ロチ(角川書店)
  「鹿鳴館」三島由紀夫(新潮社)
  「舞踏会」芥川龍之介(新潮社)
  「鹿鳴館の系譜」磯田光一(講談社)

※画像提供: 社団法人 霞会館
社団法人 日本建築学会

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文/ルポライター 長島一郎