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鹿鳴館は明治16(1883)年、麹町区内山下町(現在の帝国ホテルの南隣) に竣工。「外国人接待所」という当初の名称が示すように迎賓館だが、本格的な西洋建築の実現を期して、2年半の工期と14万円(18万円の説もある)という破格の建設費を投入。同時期に竣工した外務省の建設費が5万円だから、いかに豪華建築だったか推測されよう。
8,352坪という広大な敷地に池を配し、武家屋敷門をくぐると池の向こうに本館がそびえるというレイアウト。外観はレンガ造りで1、2階をアーケードベランダとし、窓や出入り口をアーチ型で統一したルネッサンス調の意匠を採っていたが、ベランダのアーチを支える二階の柱は、徳利のようにくびれ、ヤシの葉が柱頭を飾り、手すりにはアラビア模様の透かし彫りを施すという、インド・イスラム風の意匠も採り入れていた。
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こうしたエキゾチックな意匠はコンドル自身の考えによる。つまり、外国人を接待する場はその国の文化を反映したものがふさわしい。西洋と日本との中間としてインド・イスラム風に・・・というのだが、明治政府にとってそれは要らぬお節介に過ぎなかった。列強諸国に対して「西洋人も目を見張るような本格的な西洋建築を示し不平等条約の改正を図る」という日本人の必死の思いを彼は汲み取ることができなかった。井上馨は何度もコンドルの設計プランに駄目出しをしたらしいが、洋行経験があったとはいえ建築には詳しくなく、これがロンドンにも建っている本格的な西洋建築だと思ってゴーサインを出してしまったのだろう。コンドルは設計時、来日してまだ3年、「日本と西洋の掛け橋に」と理想に燃える28歳の青年には無理のないことでもあったのかもしれないが・・・。舞踏会に出席したフランス人ピエール・ロチ(*5)は「どこかの温泉町のカジノに似ている」と皮肉に評している。また後世の建築史家たちの評価も概ね「チグハグな印象」とされ芳しくない。さらにコンドル自身も鹿鳴館については口を閉ざし感懐を述べていない。
内部に目を転じてみよう。総建坪466坪。正面中央に玄関、1階には談話室、新聞室、大食堂等の共用施設と、厨房や玉突所等の付属施設を併設している。2階は三つ折れの大階段を上った正面に舞踏室として使われた広間、その両翼にサロンや、貴賓室が配され、さらに宿泊用の部屋がいくつか並んでいる。舞踏室は42坪。両翼のサロンとは折り戸で仕切られ人数が多い時には3室ぶち抜きの大広間になったというが、板張りの床で踊ると揺れたらしい。ピエール・ロチによると「落っこちそうな気がして、内心いつもびくびくもの」だったそうである。
だがコンドルは常に基礎を重視し、鹿鳴館の施工に際しても軟弱な地盤に耐えうるように松材を格子型に敷き並べ、ボルトで締めてコンクリートをべた打ちにする「筏地形」という基礎工法を用いた。日本に初めて耐震設計という概念を導入したのも彼で、地質調査や、材料・工法の試験に力を傾けた。東大工学部構内に立つ伊藤忠太(*6)デザインによるコンドル像の台座基部には、地震の象徴とされる2匹の鬼が這いつくばっているが、それは彼の耐震技術面での貢献を顕彰したものだろう。
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