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 正直いって鹿鳴館については、私も調べ始めるまでは「過去の時代の西洋の猿真似」として冷笑する対象でしかなかった。しかしあれこれと文献を読み進めるうちに「滑稽さ」は影をひそめ次第に「哀しさ」に気分が領されていった。中学・高校生の頃に歴史の教科書で学んだ「鹿鳴館時代」の皮相的な華やかさの背後に、明治維新の人々の止むに止まれぬ心情が透けて見えるに連れ、日本人としてむしろ感謝こそすれ、決して一笑に付する一コマではないことを知らされた。

 坂本竜馬がピストルの替わりに「これからはこれの世の中ぜよ」といって懐から万国法を取り出して示した幕末。廃藩置県で収入の道を絶たれた多くの藩士たち。今のリストラよりも厳しい現実におかれ、武家の娘が身売りをした時代。不平等条約の屈辱。その混乱は庶民の生活にも波及したはずだ。近藤富枝の労作「鹿鳴館婦人考」に詳しく描写されているが、鹿鳴館に着飾って集った上流階級の婦人たちも、慣れぬコルセットに胴を締め付けられ、体臭の強い巨魁の外国人に抱かれ、靴ずれの足を引きずるようにステップを踏んでいたのだ。その延長線上に今の私たちがいる。維新で回り始めた日本の映画のフィルムは欧米追随の基調トーンを変えずに今も回り続け、さまざまに軽佻浮薄なシーンを描いている。

 当誌(FUSION)の性格からいって、おそらくファシリティーとしてのハード面をもっと前面に出して書くべきだったのだろうが、時代と切り離して鹿鳴館を語ることは意味がないだろう。人が建築を作り、その建築によって人が作られて行く・・・のならば、建物と人との関わりに焦点を合わせることが大切だ。ことに鹿鳴館のように人と時代と建築とがFUSIONされて後々まで語り継がれているケースでは。