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1987年12月のある日、パリの北西200kmにあるサン・マルタン・ド・ミューという小さな村の朽ち果てた礼拝堂の中に1人の日本人アーチストが立っていた。
冬のノルマンディー特有の重く垂れ込めた空。破れた屋根の隙間から漏れてくる鈍い光が打ち捨てられた難破船の船底のような内部をぼんやりと浮かび上がらせていた。
500年前に建てられたその教会は隣村との統合以来、100年以上も使用されることなく見捨てられたまま、いたずらに時を刻んでいた。
アーチストはその時37歳。美術の世界に限界を感じていた。
美術館から、画廊から抜け出したところに表現はないか。
絵画や彫刻という固定された手段から開放されたアート。
創られた作品だけでなく「創る時」そのものを作品化する中で観るものとの距離を埋める。26歳でパリ国際青年ビエンナーレ、35歳、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表に選ばれ、若くして前衛美術の国際舞台に躍り出たアーチストは、やがて美術という近代の制度から抜け出し、自由な世界での表現を模索し始めていた。
そしてサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂。
足を踏み入れた瞬間、一粒の種子が地上に落ちた。
「礼拝堂再生」。
それは「礼拝堂を甦らせる」と同時に、閉ざされた美術界の扉を開けて歩き出したばかりの「自らの再生」をも目指した一粒だったのかもしれない。
現代美術家、田窪恭治さん(53歳)。
一粒の種子があの「林檎の礼拝堂」となるまで、それから11年を必要とした。

 

 
 

 

等身大で向き合う

 

生き生きとした個

「美術家」はあくまで自称

 

何も変わらないという変え方

エンディング

 

 

 

等身大で向き合う

 

 ちょうど東京で建築家の鈴木了二さんと「絶対現場」という取り壊す予定の民家をゆっくり、美しく、劇的に解体していこうという企画をやっている最中でした。もうすでに僕の中に「家」というテーマ、モチーフがあったんです。

 作品化するための素材としての「家」。海外の知人を通じ入手した情報を頼りにいくつかの教会を訪ね歩くうちこの教会と出会う。

 最初教会に入った時に「いけるな」という感じがありましたね。観たものが自分の等身大かどうか無意識のうちに探っている。だからそれより大きい教会だったらハッタリを吹かなきゃならない。嘘つかなきゃいけない。何十億円も集めなきゃいけない。今の自分の力量以上だという。で、もっと小さい所だと「何だ、今まで別な形でやってきていることで済んじゃってるじゃないか」と。風景の観察というか、初対面の直感みたいなもんですかね。頭より細胞が反応した。それであそこじゃなければできないと僕は判断したんです。その時に礼拝堂が持っているイメージを壊さないことというのが第一義だったんです。性格とか魂とか、それに近いものが家にもあるのかなと。

 有名な建築家のように東京と向こうと行ったり来たりしながらできるもんじゃないと思ったもんだから、帰ってきて女房に「行くぞ」と言って。ちょっとこれは腰据えて向こうで生活しないと表現できないと。脈絡も何もなく言ったわけですね。

 何の所縁もない日本人前衛美術家の「礼拝堂再生」の申し出に村人たちは戸惑った。「礼拝堂を買って観光目的に使うのではないか?」「村の環境は守られるのか?」「資金は?」「完成後は?」。最初にしなければならなかったことは、村の人たちや地元自治体の了解を得ることだった。
 1988年10月には村人との正式な話し合いが村議会の席上で行われた。再生の資金は田窪さんが調達すること、完成後所有権は村に残すことなど、いくつかの条件付きで田窪さんの手に委ねられた。
 「田窪恭治 サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト」がスタート。
 翌年、夏。田窪さん一家5人は礼拝堂のある村に程近いファレーズという街に移り住んだ。最終的に実現できるか、メドもつかないままのダイビング。自分を追い込まずにいられない性格だという。
 梯子を登り、梯子を外す。まるでそうしない限り何事も始まらないとでもいうように。
 その1年程前にロンドンで上演するオペラ「ゴーレム」の舞台美術を依頼されていた。

 家族でロンドンに渡りオペラの仕事を終えた後、海峡を渡ってノルマンディーに入って行きました。難民みたいなものですかね。

 3人の息子は当時、9歳、10歳、12歳。バカンス中だったから2ヶ月近く子供たち3人を近くの小学校の先生に預けてフランス語のレッスンを受けたわけですね。簡単なフランス語会話100、日常生活で使う単語を1,000語ほど習って新学期に備えましたね。

 村人たちから見張られてるという、最初の数年はまるで映画『トゥルーマン・ショー』のような感じでしたね。「あの外国人家族は一体何をしに来たのか?」。僕が家を空けることも多かったですから、その間、言ってみれば家族が人質みたいなものですね。家族がいなかったら、もっと複雑な状況になっていたかも知れない。

 村と交わした契約を基に定款の作成が始まった。
 村長、地元建築家、法律事務所のスタッフが毎週のように集まって会合を重ねる。それは田窪さんにとって初めての新鮮な体験だった。今まで自分が関わってきた美術の世界がサロン化し社会から隔離されていることに比べ、美術とは無縁の人たちが田窪さんの伝える抽象的なイメージをそれぞれの立場から解釈し直し、具体的な約束事に置き換えていく作業を目の当たりに見ることとなった。「作品が社会に組み込まれていく」。
 建築的な要素と美術の要素を複合して考える。習作、ドローイング、模型を作り図面を引き、プランを描いていく。
 フランスと日本との間を行き来し、支援資金調達の道を探るかたわらヨーロッパの教会を見て回る。印象派の画家マチスの教会、建築家ル・コルビジェが設計した教会、 古代からルネッサンス期のフレスコ画。しかし礼拝堂に着手することはなかった。完全に資金の見通しがつくまで、触ることは許されないと感じていた。折しも日本経済はバブル崩壊の最初の揺らぎに直面していた。一向に着手しない日本のアーチストに村人の不信は募っていったのではなかったか。

 3年目は相当に限界を越えつつありましたね。実際には何にもやってないわけですから。裸の王様の仕立屋みたいなものです。
 日本に帰ろうか、というような時もありました。悩んでいたら、ポチョッと前に小さな光が見える。それを飛び越える。しばらくすると、また小っちゃな光が見える。そんな感じで進んでいったんですけどね。
 全てが不利な条件。日本の仕事でない、パリ・ロンドンじゃない。全くの田舎だっていう。だからパリにしてくれとか、そうじゃないと金が集まらないとか、人 を紹介できないとか、支援しようとしている人はいろいろ言ってたんですけど。僕はもう作家として決めていたんで。

 奇妙なことに全ての不利な条件が出揃った時、不意にドミノは倒れ始めた。1つが倒れると次が倒れ、その事によって次の事が前進するというように。
 社団法人海外事業活動関連協議会の選考委員会で、海外貢献活動として承認される。「ガラスかわら募金」が設けられる。田窪さんの熱意に動かされた数多くの日本企業や日仏の人々の協力によって、資金は捻出されることになった。

 当時日本では、資生堂の社長だった福原氏が中心となってメセナ(企業の文化支援活動)の必要性を感じて体制を作り始めていた時期だったんです。いろんな意味で運が良かったっていうか。

 移り住んで3年、ようやく礼拝堂に着手する時が来た。

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生き生きとした個

 

 作業は外壁の石組みを復元することから始まった。そして壊れた屋根の修復。再生するにあたって、いくつかの大切にするべき要素を決めていたが、興味深いのは壊れた屋根の隙間から漏れていた光を活かす方法を考えたことである。使用できる瓦はそのまま残すものの、それ以外の部分には従来使っていなかったガラス瓦を特注で作り、外光が入ってくるように組み込んだ。偶然が作りあげた過去へのまなざし。
 朝7時半から夜6時まで、屋根職人たちと共に作業を続ける。気が付けば職人の1人として、プランを練る時とは別の解放された楽しみを味わっていた。人間主義。現場主義。現場に隠されたものの気配に体を澄まし、その「場」のささやきに耳を澄ます。
 新しくデザインした風見鶏の取り付け。内部の床の工事。そして壁面に何を描くか。
 自然を歩き、思考の中を深く降りていき、思いつく限りのアイデアをアトリエで描き続けた。
 感受したものを写真に撮る。スケッチをする。気が付けば林檎の実や花の写真が1万枚を超えていた。
 壁面に描かれることになったのは「その村の林檎」。すぐ目の前にある「林檎の樹」に行き着くまで、どれほど遠くを旅し、どれほど多くの形を求めたか。
 教会内部の壁面に張った鉛の板に様々な色を塗り重ね、数十層の顔料の層を作り、それを浅くあるいは深く削り出すことによって微妙に色を変化させ描いていく方法。最後に塗る白が、内部のベースの色となった[これらは田窪さんの自著「林檎の礼拝堂」(集英社)に詳しくドラマチックに記されている]。


 林檎の実を花を3つの壁面に描ききったのはファレーズに移り住んで10年、出会いから11年半が経過した1999年のことだった。

 なぜ林檎なのか、と聞かれますが、よく分からない。自然に僕の中に林檎が入ってきて次第に重さを増したとしか言いようがない。なぜ礼拝堂なのか、なぜノルマンディーなのかとも聞かれるんですが、僕にはよく分からないんですね。また面白いことに、分からないほうが気持ちがいいんです。

 言葉にならないものは、ならないままで置いておく。そして分からないものは分からないまま置いておく。「言葉になる」ということは、それはもう終わってるということです。

 こうやって話していると思い出すんですけどね、きれいに忘れてますね、リアリティを。僕自体だんだん他人事みたいになってきてます。

 終わり近くなって「できる!」っていう見通しがついた時、作家にありがちな「俺がやったんだ」なんて思った危ない時期がありましたよ。

 礼拝堂の白い壁が汚れたら1枚削り取ればいいよ、って言ってあるんですよ。その下にすぐ赤が塗ってあるんだから。そんなことにこだわりを持たない方がいい。使う者が決めていけばいいんですよ。

 僕なんかいい加減だから、礼拝堂の風見鶏を支援企業のマークにしてもいいと思ったね。そんなことで作品の質が変わると思えないから。

 昔、匿名性にこだわった時がある。今はもう匿名だろうが、何だろうが、どうでもいいっていう感じですかね。

 礼拝堂再生にちょっとは手を貸しましたけれど、何より革命的だったのは村人たちですよ。わけの分からん日本人に委ねたんですから。

 信じられないくらい、村も日本の支援企業も僕のデザインに対して口を出さなかった。それが最も素晴らしいことだった。

 完成に至るまで、プロジェクトには数知れない人々が関わった。バックアップした組織や個人、資金提供者、職人、村人など多くの人々の柔らかいネットワークと共同作業。出会うはずもなかった人と人が礼拝堂をメディアとして交差し合う。それこそが、もう1つのアートではなかったか。そしてできあがった瞬間から社会の中で息づき始める礼拝堂。田窪さんは「複数の個人」という言葉を使う。顔を失った複数ではない。それぞれの「生き生きとした個」がなければ。

 あの11年間というのが僕にとってすごく幸せだったんですよ。というのは、余計な世過ぎしのぎとか自分の売名とかやらずに済んだんですね。とにかく楽しくてしょうがなかったんです。資金が貯まらないから僕が考えている倍くらいの時間 がかかってしまったんですけれど。この時間というのがとにかく僕にとって幸せな時間だったんです。みんなは可哀想だとか、子供はどうだとかいろんなことを言ってくれていたんですけれど。今でもそのリアリティを説明できないんですけど、この時間は俺だけのもんだ、みたいなね。僕だって東京に残ってれば、世過ぎをやってたと思いますよ。

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「美術家」はあくまで自称

 

 四国、愛媛県今治市生まれ。その後、銀行員だった父親の転勤に従って、松山、広島、坂出、宇和島、丸亀と移り住む。瀬戸内海が原風景になっている。
 高校卒業後、多摩美術大学絵画科入学。大学紛争のさなか、丸2年はキャンパスへ入ることができなかった。アルバイトで資金を作っては街の画廊などで個展を開く。
 フランスの作家、マルセル・デュシャンの影響を受ける。

 デュシャンは自分が委員を務めるニューヨーク・アンデパンダン展に、何も手を加えない男性用便器を出品しようとして拒否されたりしていたんですよ。「作品」というより「考え方」を提示していたんです。「芸術って一体何なの? そんな大したことなの?」っていう。
 東京ビエンナーレという展覧会で、テーマが「ハイパーレアリズム」という写真以上にリアルに描く作家を集めてやることになったんですが、そこに本物のカルピスのビンを出品した。みんな驚きましたね。本物みたいだね、と言うわけです。よくここまで本物そっくりに作れたな、と。結局オブジェの作品は5回ぐらいシリーズでやりました。

 その後、自然の風化物に興味の対象が移った。例えば、海岸に漂着した流木や廃材、石などを拾ってきて素材として使う。偶然のもの、人為の及ばないもの、意味のないもの。国際的に活躍し始めた頃、すでに「新しい生命を与え直す」という現在に至る道程が見え始めてくる。過去の作品のどれもが最先端の現代美術でありながら、どこか牧歌的な香りを漂わせている。
 美術家というのは自称でしかないという。「未だに芸術家というのは社会性を持ってないと思っているところがある。若い時はむしろそのことが心地良かった。実体がないから」。

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何も変わらないという変え方

 

 四国・香川県。「こんぴらさん」の愛称で知られる金刀比羅宮のある琴平山を中心に今、緩やかに人と自然と文化の風が吹き始めようとしている。
 “琴平山再生計画”。
 琴平山を対象に金刀比羅宮の文化財と自然を素材にして、土地の風土やそこに暮らす人々の暮らしに相応しい風景を創り直すことを目的としてスタートしている。
 2年前、田窪さんはこのプロジェクトの文化顧問になった。「田窪よ、フランスの神さんの仕事が終わったら、今度は日本の神さんの手伝いしてもらえないか」。旧知の宮司、琴陵容世(ことおかやすつぐ)さんが顧問を依頼した時の言葉。
 16歳の時、金刀比羅宮の奥書院で観た江戸時代の絵師・伊藤若冲の絵に打たれた。以後美術家となった後も数度、その時の陶酔を確かめるために訪れるが、その都度若冲は鮮烈に迫ってきたという。そのことが田窪さんを美術の道に進ませ、さらに今回のプロジェクト参加に向かわせたのかもしれない。礼拝堂という1つの建築物と向き合ったことから、さらに「風景の作品化」というテーマにまで拡がってきた。

 人、文化、自然、全部に惹きつけられて僕はこの場所に居るんですね。ああせい、こうせいって具体的な期待を受けているわけでもなくて、もちろん期待はされているのかもしれないですけれど全てを包み込んで考え、僕なりに自由にやりたいなと。それがたまに合ってたり外れてたり。変なところで突っ張ろうとは全く思いませんけれど。それと、冗談か本気か今の宮司が「俺は田窪の狂気に賭けてる」って言うんですね。だからもう僕は勝手にやっていいのだな、と。何となく僕らの「タネ」がこんぴらさんのどこかに入って、そこに草なり花なりが生えてくればいいような気がするんですけれどね。
 抽象的で大きい話をしているようなんですけれど、もの凄く普通な話かもしれないですよ、これは。

 教会をやる前に「こんなことやるんだ」という話をいろいろな人にしたけれど分かった人は少なかった。ちょうどこんぴらさんが、今たぶんそういう時期だと思うんですよ。

 何も変わらない風景を創りたい。自然の生態系を適正に配分しながら過不足ない風景を創り、維持していくこと。全ての生物が生き生きと暮らしていけるような、全てが溶け合ってそこに在るような、「何も変わらない風景」を作ること。
 「いったい田窪はどこの何をやったんだ?」と言われるような仕事をしたいですね。

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エンディング

 

田窪恭治様
 今回の取材ありがとうございました。何度もお会いしていただき、おかげで多くの話を聞くことができました。おそらくこの原稿を読んで「なぜ、礼拝堂の話に重点を置くのか? 僕にとってはもう終わったことなんだ」と思われたことでしょう。しかし田窪さんにインタビューをお願いするきっかけとなったのは、4、5年前、礼拝堂再生に取り組む田窪さんを映像で観る機会があり、その中で貴方が鉄のヘラで壁を削っていた音が、今だに耳に残っていたからです。現代美術、前衛芸術という私には馴染みの薄い難解な世界をやさしく紐解いてくれたのは田窪さんなのです。そして最も解りやすい例が、あの礼拝堂でした。
 ご家族はご家族で、田窪さんは田窪さんの「戦い」であったファレーズでの生活、礼拝堂との対峙、とりわけ最初の3年間をつぶさに書けなかったことが残念です。
「自分が外国人になると思わなかった」というつぶやきを漏らした息子さんたちのこと、村人たちが長い年月をかけて次第に近づいてきた様子、再生のためのネットワークがしなやかにできあがっていった様は、心洗われるものがありました。
 田窪さんの作品を眺め渡してみると、その多くはすでにあった「もの」に新しい「時」を与える。そんな仕事をしてきたのではないか。比喩的な言い方かもしれませんが「白いキャンパスに1度も描かなかったアーチスト」という感想を持ちます。
 1度はその生命を終えているか、あるいは今回のこんぴらさんのようにすでに長い歴史をもっているか、いずれにせよ1度は描かれたことのある絵の上に微妙に絵の具を載せていこうとしているように思えてなりません。
 それにしても今回は大変なテーマに取り組まれましたね。こんぴらさんが神社としてだけでなく、円山応挙、高橋由一等多くの絵師を支援することで日本の文化に貢献してきた歴史を振り返ると、そうした蓄積がごく自然に田窪さんへと繋がっていることは頷けるのですが。

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まるで何かに引き寄せられるように、その「場」にやってきて風景の中に自らを刻む。
丁寧に指紋を拭き取り、立ち去る。
風景は何事もなかったかのように、そこに心地良く「在る」。
田窪さんをみていると、『今』に夢中、という言葉が浮かぶ。
そして、対象と向き合う時こんな風に尋ねているように感じる。
「いのちのおかわり、いかがですか?」と。

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聞き手/ルポライター 津川宏幹