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ちょうど東京で建築家の鈴木了二さんと「絶対現場」という取り壊す予定の民家をゆっくり、美しく、劇的に解体していこうという企画をやっている最中でした。もうすでに僕の中に「家」というテーマ、モチーフがあったんです。
作品化するための素材としての「家」。海外の知人を通じ入手した情報を頼りにいくつかの教会を訪ね歩くうちこの教会と出会う。
最初教会に入った時に「いけるな」という感じがありましたね。観たものが自分の等身大かどうか無意識のうちに探っている。だからそれより大きい教会だったらハッタリを吹かなきゃならない。嘘つかなきゃいけない。何十億円も集めなきゃいけない。今の自分の力量以上だという。で、もっと小さい所だと「何だ、今まで別な形でやってきていることで済んじゃってるじゃないか」と。風景の観察というか、初対面の直感みたいなもんですかね。頭より細胞が反応した。それであそこじゃなければできないと僕は判断したんです。その時に礼拝堂が持っているイメージを壊さないことというのが第一義だったんです。性格とか魂とか、それに近いものが家にもあるのかなと。
有名な建築家のように東京と向こうと行ったり来たりしながらできるもんじゃないと思ったもんだから、帰ってきて女房に「行くぞ」と言って。ちょっとこれは腰据えて向こうで生活しないと表現できないと。脈絡も何もなく言ったわけですね。
何の所縁もない日本人前衛美術家の「礼拝堂再生」の申し出に村人たちは戸惑った。「礼拝堂を買って観光目的に使うのではないか?」「村の環境は守られるのか?」「資金は?」「完成後は?」。最初にしなければならなかったことは、村の人たちや地元自治体の了解を得ることだった。
1988年10月には村人との正式な話し合いが村議会の席上で行われた。再生の資金は田窪さんが調達すること、完成後所有権は村に残すことなど、いくつかの条件付きで田窪さんの手に委ねられた。
「田窪恭治 サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト」がスタート。
翌年、夏。田窪さん一家5人は礼拝堂のある村に程近いファレーズという街に移り住んだ。最終的に実現できるか、メドもつかないままのダイビング。自分を追い込まずにいられない性格だという。
梯子を登り、梯子を外す。まるでそうしない限り何事も始まらないとでもいうように。
その1年程前にロンドンで上演するオペラ「ゴーレム」の舞台美術を依頼されていた。
家族でロンドンに渡りオペラの仕事を終えた後、海峡を渡ってノルマンディーに入って行きました。難民みたいなものですかね。
3人の息子は当時、9歳、10歳、12歳。バカンス中だったから2ヶ月近く子供たち3人を近くの小学校の先生に預けてフランス語のレッスンを受けたわけですね。簡単なフランス語会話100、日常生活で使う単語を1,000語ほど習って新学期に備えましたね。
村人たちから見張られてるという、最初の数年はまるで映画『トゥルーマン・ショー』のような感じでしたね。「あの外国人家族は一体何をしに来たのか?」。僕が家を空けることも多かったですから、その間、言ってみれば家族が人質みたいなものですね。家族がいなかったら、もっと複雑な状況になっていたかも知れない。
村と交わした契約を基に定款の作成が始まった。
村長、地元建築家、法律事務所のスタッフが毎週のように集まって会合を重ねる。それは田窪さんにとって初めての新鮮な体験だった。今まで自分が関わってきた美術の世界がサロン化し社会から隔離されていることに比べ、美術とは無縁の人たちが田窪さんの伝える抽象的なイメージをそれぞれの立場から解釈し直し、具体的な約束事に置き換えていく作業を目の当たりに見ることとなった。「作品が社会に組み込まれていく」。
建築的な要素と美術の要素を複合して考える。習作、ドローイング、模型を作り図面を引き、プランを描いていく。
フランスと日本との間を行き来し、支援資金調達の道を探るかたわらヨーロッパの教会を見て回る。印象派の画家マチスの教会、建築家ル・コルビジェが設計した教会、
古代からルネッサンス期のフレスコ画。しかし礼拝堂に着手することはなかった。完全に資金の見通しがつくまで、触ることは許されないと感じていた。折しも日本経済はバブル崩壊の最初の揺らぎに直面していた。一向に着手しない日本のアーチストに村人の不信は募っていったのではなかったか。
3年目は相当に限界を越えつつありましたね。実際には何にもやってないわけですから。裸の王様の仕立屋みたいなものです。
日本に帰ろうか、というような時もありました。悩んでいたら、ポチョッと前に小さな光が見える。それを飛び越える。しばらくすると、また小っちゃな光が見える。そんな感じで進んでいったんですけどね。
全てが不利な条件。日本の仕事でない、パリ・ロンドンじゃない。全くの田舎だっていう。だからパリにしてくれとか、そうじゃないと金が集まらないとか、人
を紹介できないとか、支援しようとしている人はいろいろ言ってたんですけど。僕はもう作家として決めていたんで。
奇妙なことに全ての不利な条件が出揃った時、不意にドミノは倒れ始めた。1つが倒れると次が倒れ、その事によって次の事が前進するというように。
社団法人海外事業活動関連協議会の選考委員会で、海外貢献活動として承認される。「ガラスかわら募金」が設けられる。田窪さんの熱意に動かされた数多くの日本企業や日仏の人々の協力によって、資金は捻出されることになった。
当時日本では、資生堂の社長だった福原氏が中心となってメセナ(企業の文化支援活動)の必要性を感じて体制を作り始めていた時期だったんです。いろんな意味で運が良かったっていうか。
移り住んで3年、ようやく礼拝堂に着手する時が来た。
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