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私が飯田橋の江戸川アパートメントに住んでいたのは、'86年〜'94年の8年間のことだ。この8年間は今思っても「ラッキーだった」としか言いようのない年月だった。
コの字型とエの字型の2つに分かれた鉄筋コンクリート6階建ては、光のよく入るらせん階段、その手すりの鉄の厚さ、管理人さんの掃除が行き届いている渡り廊下等々、すみずみまで、人が心地よく生活するための意識、モラルが住み着いている建物であった。その建物に取り囲まれるように位置する大きな中庭は、住人でもある庭師のおじいさんによって、綺麗に季節ごと手入れされていた。春には桜の花が咲き、5月は藤棚が紫に色づき、夏はアイビーの葉が真っ赤になり、秋は巨大な何本もの銀杏の木が黄色く変わる。毎日玄関を抜け仕事場に向かう度、この庭に見送られているようで、仕事場から戻ったときは心から「帰ってきた」という気持ちにもなったものだ。
すぐ近くには高速道路が走り、東京ドームが見え、周囲にはオフィスが建ち並び、新宿区と千代田区と文京区の狭間の東京のど真ん中に位置しながらも、このアパートの風景はいつも静かで穏やかだった。昭和6年に建設されたという古めかしさと、人が生活空間として「実用している」という事実。それは、時が“止まっている”というより、時から“開放されている”という安らぎを与えてくれていた。
私が住んでいたのはワンルーム6畳、2万5千円、水道、お風呂、トイレ共同。その条件だけ拾い出してみると、普通、いい年の女子が住むには、情けなくなるような境遇。だけど、ここで生活する上での心地よさのほうがメリットとしてあまりにも大きく、普通なら不便なはずの水の汲み置きや部屋を出ての炊事も苦ではなかった。なぜなら、時代が進めば進むほど、世間の合理的な建物の材質と反比例していく、江戸川アパートのひとつ、ひとつの重厚な造りに心酔しながら暮らせたからだろう。共同トイレのタイルの張り方、共同洗濯場の石でできた厚く深いシンク、洗濯物を干すときの屋上から見渡せる中庭、その上にのぞく東京タワー、新宿副都心等の東京の景色、地下の銭湯の脱衣カゴ、銭湯の隣にある理髪店、厚い木の扉等々…、そんな風景の気持ちよさ。 それは生活を“苦労”に変えない空間だった。
私は、数十年も続くアパートと、そこで生まれ育って生活をしている人たちの空間に「入居した」と言うより「潜り込んだ」という感覚で暮らしていた。他の同潤会アパートは知らないが、江戸川アパートは、町の不動産屋等の斡旋や何かの公開情報から入居できる物件ではない。当時、800ほどあった部屋は全て分譲で、それぞれが個人管理されていた。大家さんにあたる人たちもほとんどはアパートの住人で、部屋の賃貸で「商売」する意識はほとんどなさそうだった。「5階の空いている部屋に、今度上京する親戚の××ちゃんに住んでもらったら」というような延長で、「あそばせている部屋があるんだったら、誰かに住んでもらったほうが部屋が痛まないで済む」といった呑気な気分で部屋貸ししていた人が大半だったように思う。だから、積極的に店子を捜すこともなく「以前住んでいた××さんの紹介なら…」というコネで住人は決まっていた。入居方法は安易である故に、その住人ネットワークに乗のらなければ入居は難しかった。
江戸川アパートに身内もいない私がそのネットワークに乗って「潜り込んだ」のは、偶然のみだった。たまたま知り合いが江戸川アパートに住んでいる人を知っており、空き部屋情報が転がりこんできたのだ。新しい部屋をちょうど探していたタイミングでもあり、私はアレヨ、アレヨという間にアパート一階でタバコ屋を開いている大家さんの下、6階、6畳単身者用の一部屋の住人となった。その部屋の床はコルク張り、作り付けの机と棚があり、狭くはあったが、1人なら充分な空間だった。一旦入居すると、空き部屋情報は、俄然と拾い易くなり「この間友人になった○○号室の人が、部屋を引き払いたいと言っている」などと、新情報が入ったりする。そんなわけで、私も、家賃が安い日当たりのより良い部屋に途中で移ったりした。
住人は、ほとんどが江戸川アパートメント創設から生活しているような年輩の方々で、その瑞々しい暮らしぶりは、中庭で立ち話されているときの気持ちよさそうな会話に表れていた。銭湯でご一緒するときも、人の噂話に花が咲いているような様子など感じたこともなかった。深夜0時には地下の共同浴場が消灯するので、私などはいつも時間ギリギリ、または懐中電灯を持って暗闇の中お風呂に入ることもあった。そんなとき、ひとりの年輩のご婦人とバッティングするときがあり「誰もいない時間にシャワーを浴びるのが好きなのよ」と話していた。1人暮らしされているようで、夜ふかしして読書してしまうのよ、などと楽しそうに話していたこともとても自然で、この場所にいると「1人」ということも、とても素敵な時間の過ごし方だな、などと思ったりした。そうかと思えば、6畳一部屋にずっとお2人で生活している夫婦もいた。 確か、私が住んでいたころに、映画監督だったその旦那さんがお亡くなりになり、社交室で葬儀が行われた記憶がある。この場所なら、ずっと2人で過ごしても閉塞感はなかっただろうな、と思ったりしたものだった。
誰もが、このアパートをとても大切にしていることは、結局、取り壊しの計画が何度か話に上がっても、住民理事会の決議により、取り壊しが実現していないところでも窺い知れた。顔見知りだった管理人さんによると、70年代から取り壊しの話が上ってはうやむやになってきたという。
その後、仕事等の都合から江戸川アパートメントでの生活がどうしても手狭になり、私はこのアパートを出ることになり、これまでの数倍も値段の張る(と言っても世間では標準以下の値段だったりするのだが)場所へ住居を移すことになった。そして、あのアパートメントが、生活する上で与えてくれていたものの大きさを嫌が上でも感じることになった。お風呂もトイレも台所も部屋の中にあるワンルームは当たり前のように便利だが、隣に誰が住んでいるかわからなくても、物音だけは筒抜けのモルタル造りの部屋に慣れるにはかなり時間がかかった。また、何よりもその空間を好きになるまで苦労した。贅沢なことだが、自分はその家賃も含め、江戸川アパートの持つムードに相当助けられていたんだな、と痛感した。
私は所詮、江戸川アパートに「潜り込んだ」人間で、ムードの中で年月を過ごし、取り壊しの話が上るたびに意見を通してきた住人の方々とのリアルな生活意識とも雲泥の差があっただろう。私の味わった江戸川アパートの生活はとどのつまり、その中で過ごすことのできた、ただただラッキーでありがたいことの延長で成立しているに過ぎなかった。そして、居を変えて、私はあのアパートで味わった幸運を元に、それを自分で構築し直すべく、自分のいる空間を好きな場所にするべく、自分がいさえすれば、特別に心地よい空間にするべく、毎日を過ごして数年経っていたりする。
江戸川アパートが取り壊される、という話を聞いて、失くなってしまう前に姿を見ておきたいと、久々に飯田橋を訪れた。 住人は皆、出払い、誰かが生活している形跡はもうどこにもなかった。しかし、相変わらず緑が豊かな中庭、まるで変わらないその建物の姿は、これから取り壊される、というリアリティがまるでない。だからと言って、取り壊されるんだなという感慨も何もなく、懐かしさがこみ上げることもなく。ここにいた自分が、時を経てまた、いるだけ、という妙な感覚。それほど、江戸川アパートは私がただ生活していた場所なのだなと感じ、また、自分は今、ここでの生活と同じように別の場所でそれなりに心地良く生活しているんだな、と何となく思った。
江戸川アパートは特別な場所ではあったけれど、そこは、どこまでも生活をするだけのとても良い空間であったのだ。
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