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index -2003 SUMMER Vol.31- 同潤会アパート
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大正末から昭和初頭の十年間に建設され、
日本に「集合住宅」と「文化生活」の斬新なスタイルを提示した「同潤会アパート」。
7、80年の風雪に耐えた建物も、15のうち12は既に解体され、残るは3ヶ所のみ。
現存するアパートは都会の海に浮かぶ老朽船のように、
色錆び、剥がれ、崩れ、それでもかろうじて姿勢だけは保っている。
世評に高いこの建物は、いったいどのようなファシリティを有していたのだろう。
 


日本人が初めて経験する、縦に重なって住まうコミュニティー
集まって住まうことの明快なイメージと多様なファシリティ
ハードとソフトの両面を実践した同潤会
次の時代に向かって私たちは何を継承して行けばよいのか


日本人が初めて経験する、縦に重なって住まうコミュニティー

 大正12年9月に発生した関東大震災は、約70万戸が倒壊焼失するという未曾有の被害をもたらした。すぐさま日本全国から義援金が寄せられ、その一部を原資として財団法人同潤会が設立され、住宅建設事業に乗り出した。同潤会が存続した18年間にアパート15ヶ所(2508戸)と、普通住宅(9477戸)を建設したが、それは、明治以来日本が蓄積してきた近代建築の知識と技術、理想的な住宅政策を実践する機会でもあった。
同潤会の中で最大の規模だった清砂アパート まずは東京の郊外を中心に木造住宅を建てた。しかし職場から遠く交通費がかかると不人気。そこで都内に建設地を求めたが、震災後といえども安く入手できる土地はなく、いかに集合して住まうかという収容率が新たな問題として浮かび上がった。それをクリアするために採った方法がコンクリート造のアパートメントだった。
 欧米の都市では古くから見られる集合住宅スタイルだが、当時の日本の都市庶民の住居は、路地に沿った木造の長屋が一般的で、貧しいながらも相互扶助を基礎とした人情の厚い地域社会が営まれていた。これをアパートメントでは縦に何層か重ね数十家族が住まう、という全く新しいライフスタイルを提案した。自分の頭の上に人が暮らし、自分の足の下によそ様が暮らす、という未経験の形態が日本人に受け入れられるのか。また鉄筋コンクリートの建物に、木造建築と密接に結びついた日本の伝統的な暮らしを持ち込めるか。現在は「代官山アドレス」に再開発された渋谷アパート課題の多い壮大な実験は実践に移される。果たして、予想に反しアパートメントは都市庶民にすんなりと受け入れられた。その背景には、大正から昭和にかけての自由な雰囲気と欧米の文化的な暮らしへの憧れが、既に東京の庶民にまで広がっていたからだと思われる。
 アパートメントスタイルは評判を呼び入居希望者が殺到。これに気を良くしたのか同潤会では、住宅建設の主力を都内のアパートメントにシフトし次々に建設していく。一方、この人気に便乗しようとして都内のあちこちにアパートメントが出現したが、それらは木造の2階建てに過ぎず「アパートメント」とは名のみで同潤会のそれには遠く及ばず、民間アパートのイメージの低落は今日まで尾を引くこととなった。

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集まって住まうことの明快なイメージと多様なファシリティ

江戸川アパートに見るファシリティの一部 同潤会アパートは、近代的なファシリティを備えていたことでも人気を呼んだ。住居としての空間のイメージに、生活のイメージが良くデザインされていたのだ。当時は珍しかった電気・ガス・水道を完備し、水洗トイレやダストシュート等の基本設備の他に、集会室、娯楽室、食堂、洗濯場等の共用施設を備えていた。また所によって内容は異なるが、店舗、児童遊園、社交室、医療室、理髪室、サンルーム、共同浴場まで備えている所もあった。殊に昭和9年、最後に建てられた江戸川アパートは、エレベーター、蒸気暖房用のボイラー、ラジオ、電話など当時最高水準の設備を備え、豊かな生活空間を実現していた。
 これらのファシリティは「人が集まって住まう」ことに対する明快なイメージがあり、その実現を綿密に考え計画されたものだったが、コミュニティーとしての実用的で細やかな配慮は、震災から立ち直ろうとする庶民に新しい都市生活をスタートさせる弾みともなった。また間取りのバリエーションも実に豊富で、15ヶ所のアパートメントに家族向け87種、独身者向け41種。和洋どちらの生活スタイルも可能で、多様な要求に応えられるように配慮されていた。
 大正から昭和への近代資本主義経済の発展とともに、当時「新中間層」と呼べる都市市民が育っていたが、同潤会はこうした人々に近代的な生活様式を提供した。因みに世帯主の職業を見ると、比率の多い順に銀行会社員、官公吏軍人、商工業、医師教員宗教家、その他の有業者、運輸通信業、記者著述家芸術家となっている。都市全体からみればほんの限られたスペースと限られた人々ではあったが、新しい都市生活者の目標とする暮らしとコミュニティーのスタイルを具現した小宇宙空間だったともいえる。

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ハードとソフトの両面を実践した同潤会

 ところで、同潤会というと建築的なハード面から語られることが多いが、単に住居という空間を供給しただけでなく、福祉的なソフト面での実践も高く評価されている。震災後の庶民の生活再建を助けるために、教育、医療、職業訓練、就職に至るまで、他の社会福祉団体とも協力しながらきめ細かな施策で成果をあげた。管理はもちろん、入居世帯の夫婦喧嘩の仲裁や借金の世話までもしたらしい。まさに「同じように潤う」ことを掲げて設立され、さまざまなコミュニティ施設と、それを維持するためのソフトとともに完成度の高い地域社会をつくりあげた。災害復興時といえども人間を住宅という箱に機械的に詰め込むのではなく、豊かな生活の場を用意したことは、同潤会が今なお人々の関心を呼び続ける証左に他ならない。未だその爪痕残る阪神・淡路大震災の後にも、同潤会の偉業は何度も語られた。
 また今日、老朽マンションの建替え問題が各地で浮上し、かつてのスクラップ&ビルドからストック&メンテナンスの時代へと移行する中で、同潤会アパートの再開発が注目を集めている。東京ステーションギャラリーの安藤忠雄建築展では、青山アパートの建替え計画に基づく模型が人々の関心を集めていたが、安藤忠雄の「一棟だけ現在の材料を使って壁を復元したい」という言葉は、同潤会の精神を残したい、という意思の表れでもある。戦時色の強まる昭和16年、同潤会は役割を終え住宅営団に事業が引き継がれるが、その後は機能性のみを追及した画一的な団地が大量に供給されていった。

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次の時代に向かって私たちは何を継承して行けばよいのか

当時の江戸川アパート(2号館) 解体の始まった江戸川アパートでは「捨て猫禁止」の看板がダンプカーの巻き起こす風にゆれていた。建設機械がうなりを上げる清砂通アパートでは巻き上がる塵埃の向こうに高層の巨大団地がそびえていた。間もなく解体の始まる青山アパートではテレビアンテナに蔦がからみつき屋上を覆い始めていた。まだ現役の上野下アパートでは枯れた長唄が暗い階段を這うように湿った空気を震わせていた。壁がくずれ管が剥き出しになった三ノ輪アパートではプロ野球の実況中継が洩れ狭い玄関先に黄色いサーフボードが立てかけてあった。
 何人、何世代の家族たちがこのアパートを通過して行ったことだろう。同潤会アパートの幻影を追って歩くうちに、ふと世界の歴史と文化を見据えて逝ったある作家の言葉が甦った。

創り、維持し、ぶっ壊す…。
創り、維持し、やがてぶっ壊す…、ぶっ壊したものを修復し、維持し、保存する…。
人間のすることはこれだけか、と思われて来ることがある。
(堀田善衛『スペイン断章』引用)

 セトル仲之郷、代官山アドレス、プリメール柳島、シャンポール三田、モンテベルテ横浜、ザ・ウィンベル飯田橋、イーストコモンズ清澄白河・・・。名称はモダンに変わったが、同潤会の精神は継承されているのだろうか。次の時代に向かって私たちは何を継承して行けばよいのか。
 未だ現役の井戸残る上野下アパートの前庭で、かくれんぼに興じる子供たち。めっきり目にすることのなくなった光景を見ながら、形は去れども、せめてその精神(こころ)は「まぼろし」にしたくないと強く感じた。

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写真提供:東京理科大学大月研究室
 
文/ルポライター 長島 一郎


 

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われわれ人間は、長い歴史の中でさまざまな「モノ」を創造し、世に誕生せしめました。その一方で、その優れた技術を披露する機会もないまま消えてしまったり、人知れずひっそりと灯火を燃やし続ける「モノ」たち…。古今東西の中からそんな「幻の名品・珍品」を探しだし、今あらためてその魅力に迫ります。

 
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