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特集・スペシャルインタビュー 「音楽。ただ 音楽。」
index -2003 SUMMER Vol.31- 指揮者 宇宿 允人
表紙・INDEX
カバーストーリー
特集:宇宿允人
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PROFILE
EXTRA
私風景 〜shifukei〜
タクミのシクミ 〜異業種に学ぶ〜
まぼろし博物館
見られたくない/見られたい
what's NEW
ファシリティーズ最前線
編集後記
BACK NUMBER

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 「2、3年の間、死んでみたいんですよ。向こうから見ていたい。一体、本当に・・・音楽界に・・・私が必要なのかどうか・・・」
 リハーサル3日目、途中の僅かな休憩時間。控室に戻るとへたり込むように椅子に腰を落とし、荒い息を吐きながら、途切れ途切れ絞り出すように呻いた。疲労の極みに達していた。3時間程の睡眠が1ヶ月間も続いている。リハーサルで疑問が残ったパートの譜面は自宅に持ち帰り、朝方までかけて全て自分で直すのが習慣になっている。この日も朝の7時までかかった。テーブルに肘をつき、うなだれたまま眼を瞑り、じっとして動かない。
 「みんなは私が死んだ後、『あいつがいないとまずいよ』と言うのか、『あの野郎、死にやがった』と言うのか・・・」
 憔悴ぶりに気を使ってか、リハーサル開始予定を5分程すぎてマネージャーを務める女性団員が呼びに来た時、烈火のごとく怒りをあらわにした。「何もかも演奏者のために用意周到に準備して、こっちはいるんだ。約束を守らない、と思われたらどうするんだ!」
 ふっと弱い声になり「一事が万事、これです」。怒りが残していった光が、微かながら眼に宿っている。「誰か私の代わりに寝てくれませんかね」。冗談のように言いおいて指揮台に向かっていく。
 「生きながら伝説となった指揮者」と謳われ、「クラシック界一の奇人」「正統の中の正統」など、様々に人はこの人を評してきた。
 NHK交響楽団・首席トロンボーン奏者、大阪フィルハーモニー交響楽団・専任指揮者、ヴィエールフィルハーモニック(現・関西フィルハーモニー管弦楽団)・常任指揮者。その輝いた経歴の岸辺を離れ、クラシック音楽界の海を単独で漂流し始めて22年が経った。その間独自で開いてきた演奏会は143回。今、その人は144回目のコンサートを2日後に迎えようとしていた。
 フロイデフィルハーモニー音楽監督 宇宿允人さん(69歳)。
 常軌を逸したかに見えるリハーサル、巷間聞こえてくる日常生活の奇人ぶり、そして何よりあの胸を貫いていく音楽。
 こんな激しい生き方が平成の世にまだ残っていた。絶滅種に近いが、国からの保護指定は受けていない。
 



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軍手をはめたマエストロ ・ リハーサル

リハーサル風景 新宿オペラシティのリハーサルルーム。初日。自分で運転してきたトラックを搬入口につけると、指揮者自らステージ作りのための資材を降ろし始める。早めに来たメンバーが資材の運搬、雛壇の設置を行っていく。コントラバスやチェロが載っても耐えられるだけの丈夫な重量のある厚手の合板が数十枚、それを支える台(箱馬)が大量に運び込まれる。箱馬の上に合板を敷きつめることで雛壇を作り、本番と同じ条件を作り出していく。1つ1つ演奏者の位置を確認しながら、演奏台を修正し、椅子、譜面台の位置を確かめていく。譜面台に置かれる楽譜はこの2ヶ月の間に指揮者自身が作成したものだ。隙間なく五線譜が並べられた市販の楽譜から一段ずつ拡大コピーして切り貼りする。譜めくりの時に演奏に支障を来さないよう、各パートの休みの箇所がめくりの場所になるよう配慮されている。眼に優しいように少しクリームがかった色の紙を特注している。練習の時に、散らばった楽譜を集めても直ぐにパートが分かるようにパート毎に表紙の色を変えている。こんなことまで指揮者がやらなければいけないのか、という思いがよぎる。こうした様々な配慮がされているのも、演奏者が音楽だけに集中できる環境を可能な限り作りたいためだと気付いたのはリハーサルが始まってからだった。そう、それらが語っていることは「演奏では一切手抜きをさせないぞ!」だった。
 リハーサルが始まる。曲が始まった途端の停止。演奏者ごと名指しの注意、説明。同じ場所を繰り返すうち、次第に語気は荒くなっていく。ほんの2、3秒の出だしの部分だけでどれ程の時間をかけただろうか。ニュアンスをピアニカで吹いてみせ、どのような思いを込めて演奏するかの比喩があり、叱責があり、罵倒があり、時に笑わせ、嘆き、ついには哀願がある。ようやく納得があって、そこを通過しても何小節か先で再び止める。威嚇、戒め、叱咤、激怒、肯定、悲嘆、失意、謝罪、激励、合点、納得、称賛、感謝。人の持つあらゆる感情、表情がそこにある。
 そうしながら、ほんの少しずつ先へ進んでいく。曲の深み、意味を伝えていくのに、その部分のメインの奏者が一種の生贄になる。1人を罵倒しながら全員に伝えているのだ。

 

 リハーサル初日の指揮台に上がった瞬間が勝負です。必ず奏者との葛藤があります。中には、ごねる人間もいます。100人を救うためにクビにするか、それもひっくるめて100人を引っ張っていくかっていうことになる。それは、毎回の様に淡々とやらなきゃならないことなんです。働かないヤツも、働いてる人間も平等に扱っていかなきゃならない。そういう理不尽なことがあっていいんだろうかと。

 開始、停止の繰り返しが際限もなく行われ、少しずつ楽曲のテーマ、そこに込められたものについて理解が行き渡り始めた時、演奏は止まることなく走り始める。おそらくは細部で問題点を残しながらも、全体を把握させようという意図があるのだろう。

 辞めていった人間が不思議に私の音楽的な悪口は言わないんです。厳しすぎるとかいうようなことは言います。厳しくせざるを得ないです。人に商品を聴かせるためには、あいまいな音だったら、人は眠くなって、金を払ったことを損だと思います。失望した気持ちと時間はどうやって償うんですか。精神的に手を抜いたものに聴衆は納得できないです。ここへ来た時間をどうしてくれるんだと、こうなった時にお金で返す訳にはいかないんです。だから、それを私は楽団員に要求するんです。ミスを怒ってるんじゃないと。本当の芸術家っていうものはテクニックはプロで、精神は初心でいることであると。

 休憩時間、翌日のリハーサルに出席できないメンバーがその旨を伝えに来る。
「私に断ってもしょうがない。チャイコフスキーに断ってよ」

 ティンパニー奏者で、フロイデフィルのマネージャーも務める斉藤伸江さんはプレーヤーの立場から話す。
 「手を抜いて弾く人がいる。指揮者(宇宿さん)がそれを指摘すると『やっぱり』と、他の奏者としてはスッとする訳なんですよ。だから自分たちもやらなきゃいけないという気持になるんですね。一番後ろのメンバーにまで『何やってるんだ!』と怒る。通常、後ろに行けば行くほど常任でないメンバーがいて責任を持っていないんですけど、指揮者の考えは違うんですね。『アシスタントや後ろのメンバーが一番上手くなくてはいけない』と説明するんです。そうすると、だんだんメンバーの意識が変わってくる。外から見ていたら酷いことを言っているように思うかもしれませんが、メンバーとしては非常に納得がいくんです。だからみんな帰らないんですね、過酷な練習やってても。

 例えば他の指揮者が『お前らバカヤロー!』なんて自分のオーケストラに言ったとしたら、『何だバカヤローとは!訴えるぞ!』って始まると思いますよ。絶対に指揮者(宇宿さん)のところでそれはない。あの人が言われるのは当たり前だと。と言っても、いざ自分が言われるとパニックになるんですけど、あんなに言われて辛いんじゃない、とか誰も言わないんです。そこが決定的に違うところで、誰もが厳しいと感じていると思うんですけど、本当にもしかしたら、一番いい練習だなって思ってるのはメンバーかもしれません」

 指揮者(宇宿さん)はメンバーに自分の意図をひたむきに伝えながらも、「『お前たちも怒れ!』と言っているんです。怒れば、怒った以上にやらなければならなくなる」
 その都度選ばれるメンバー。今回はオーケストラ編成、約100名。フリーのプロ、大学生。レギュラーもいれば、数回目、中には初めてという人も混じっている。ベテランも新人も報酬は同じである。

 オーケストラの中で、弾ける人間と弾けない人間、一番と二番と、どうして同じギャラにしなきゃならないのか。ベテランの方がやる気なくなるんじゃないかと。あんなヤツと俺と一緒のギャラかということになると思います。非常に金銭的なことで悩むんですけど、私は今のところ、ギャラは同じにしています。例えば、ほんの何人かの学生がやりたいと言って来ます。学生だからということで、ギャラをなくしたり下げたりすると、学生だから、という気持ちで弾くんです。「だって私は学生として先生がOKされたんですから、これ以上は弾けません」と。

 フロイデフィルの場合、常にコンサート開催の資金調達と向き合ってきた。過去幾度も開催が危ぶまれ、休止の危機にも見舞われている。家財を売り払って経費にあててきたが、それも尽きた。資金捻出に奔走してきた疲労感が、どこかしら滲んでいる。

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音楽は遅れてやってきた

 1934年、京都市に生まれる。
 小さい頃から音楽は好きだったが、本格的に取り組んだのは遅い。スポーツ少年だった。バレーボール、軟式テニス、野球。毎日、鴨川沿いの道を5km走った。中学2年で初めてブラスバンド部に入り、和声学を学ぶ。そのことが高校2年に普通科から音楽コースに転入する最初の伏線になっている。

 男は男らしく、女は女らしく、といった時代。音楽をやっている男は、女々しいと言われた時代です。ブラスバンド部に入って初めて音楽をしたようなものです。高校の音楽コースに入ったら、みんな音符でぎっしり埋まった真っ黒な譜面を見てピアノを弾いているんです。そんな時に私はバイエル(ピアノの初級者のための教則本)から始めました。10日でバイエル106番まで弾けるようになって、先生は驚きましたね。バイエルが終わってすぐに、ソナタ(ピアノの中上級程度の教則本)。ベートーヴェンの「悲愴」も弾きました。しかし、まだまだ準備不十分で、芸大を受けるなんてとんでもないことだったんですよ。私はそういう感じで東京に受験に来たんです。

 東京芸術大学器楽科に入学。授業はほとんど出ず、皆が帰った頃学校に行って、夜中までピアノやトロンボーンの練習、作曲、指揮法などを学び続けた。大学には結局、 最初の半年しか行かなかった。先生にまで代返を頼んだという。テストだけは受けていた。授業には出なかったが、一方で憧れだった日本のクラシック音楽の草分けとも言える近衛秀麿のもとへ通い、見習いを続けながら指揮法と管弦楽法を学んでいく。

 近衛さんに会った頃から既に指揮者を目指していました。近衛さんは言った。まずはオーケストラに入って主席になれと。主席になれば、オーケストラを指揮するということはどういうことか理解できるようになる。オーケストラのプレーヤーになるには、芸大を首席で卒業しなければならないんです。私はそれで「よし、一番になる!」と心に決めました。幸いに、なんとか首席で卒業しました。しかし本当は、どこの学校を卒業したとか、どんな賞をもらったとか、そんなことは本質的なものではなく、音楽とは、もっと奥深いものですよ。
 
 近衛先生の書生のようなことをさせてもらいながら、日本の音楽界、音楽教育の将来に疑問を持つようになっていきました。それならば日本の音楽界を変えるためには、どういう勉強をすればいいのか? 指揮をしたいから指揮者になったというより、音楽界を見直すために指揮者(指導者)としての道を選んだのです。

 1957年、NHK交響楽団にトロンボーン奏者として入団。60年には主席奏者となる。経済的にも恵まれていた時代、何よりゆったりと演奏活動をできたことが嬉しかった。しかし周りを見回すと、日本のオーケストラはピンからキリまである。N響だけでなく他のオーケストラもレベルアップしなければ、と感じ始める。近衛秀麿に「指揮者になりたい」と言った意味がそういうことなのだと、はっきりその時意識した。N響の10年は指揮者の隅から隅まで学んだという。

 1968年、研鑽のため楽団からニューヨークに派遣された。数ヶ月が過ぎた頃、当時大阪フィルの常任指揮者だった朝比奈隆から専任指揮者にならないか、という誘いの電話が入った。給料はN響時代の3分1。

 迷って、日本に残してきた家内に相談したら「ゆくゆくは指揮者になるんでしょ。大阪フィルへ行ったら」と一言。それで踏ん切りがついて、朝比奈氏にN響と折衝してほしいという手紙を出した。8ヶ月のニューヨーク生活でした。本当はニューヨークからヨーロッパに渡って勉強したかった。アメリカのオーケストラはうまいんだけれど、2、3回聴いたら飽きてしまう。ニューヨークもボストンもフィラデルフィアも。特にフィラデルフィアなんて目も覚めるほどうまいのに。

 翌年、大阪フィルハーモニー交響楽団の専任指揮者に就任。1年後、定期演奏会でベートーヴェン「ミサソレムニス」を指揮。指揮者個人に対して、これまで前例のなかった大阪文化祭賞を受賞する。どのような経緯があったか、その直後に解任通告を受ける。大阪フィル退団後、関西に住む若い弦楽器奏者25名が集まり、「ヴィエール室内合奏団」としてスタート。その常任指揮者に就任した。3年後、合奏団として大阪文化祭賞を受賞するが、次第に芸術から遊離していくように感じられ、退団。漂流が始まる。

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見えてくるもの・エピソード

 いくつかのエピソードを並べてみると、この人の「あまりに真っ直ぐ」と「それゆえの衝突」が見えてくる。言葉に収まりきらない生き方。クラシック音楽の指揮者といえば、近寄りがたい雰囲気、日常を想像するだろう。この人の生き方は全てそれらを裏切っていく。

 ベッドのシーツなんか2ヶ月替えなくても全然問題じゃない。食べ物が床に落ちようが犬が食べられるんだから人間が食べて悪いわけはない。ドッグフードを買ってきて自分で食べることもあるんです。塩っけがないなって。どうってことないです。食事も朝昼晩カレーライスでもかまわない。そんなことはどうでもいいんです。部屋なんか埃がいくら溜まっていても平気。そのくせ作った楽譜の五線譜がゆがんでいたり見えづらいと、非常に気になるんです。

 2年前、長年連れ添った妻・嘉余子さんを亡くした。生前から変わらないが、本来なら専門の職人に頼まなければできないような大仕事でも宇宿さん自身がやってきた。
 広い家のいくつもの部屋の壁紙を貼った。繋ぎ目も分からないような出来栄え。襖、障子の張り替え、本棚、浴室、下水、屋根裏の電気配線、飼っている犬の出入口、掘炬燵、庭の石畳、離れの楽譜室、屋根の修理、庭木の手入れ、杉皮を葺いて庭園のようにした裏木戸、石を組んだ家の正門、全て宇宿さんの手作り。家の中で手を入れていない箇所は畳くらいだという。何事にも興味を持って自らやってみるという。

 アイロンがけも洗濯も、全部自分でやりますよ。人のものだってやりますよ。奥さんがやらなきゃいけないなんて法律ないでしょ。私は自分の布団が汚いことなんて問題じゃあないんですよ。自分については全然気にならない。よく娘には注意されます。自分で使える時間の中では、できるだけ生活の努力をしたほうがいい。それは物事の本質を見つめるということにおいて最も大切なことなのです。

 幾度目かの取材の時だったか、宇宿さんが寝泊まりする棟のダイニングで、昨年放映された番組についての話題になった。「あの編集はひどい」「無茶苦茶だ。いろんな曲をまぜこぜにしてつないでいる」など、その場にいた楽団員から様々な批判が出た。あまりの激しさに「オンエアを認めたのは結局、宇宿さん自身でしょう?」と聞いた時、さらに反論しようとした楽団員の1人を押し止めるように、宇宿さんは小さく頷いた。
 下請けプロダクションのスタッフの顔が浮かんだのか、テレビでの放映による宣伝効果を考えて折れたのか。

 「私ほど人に教えるのがうまい人間はいませんよ」と言う。
 ある時、幼稚園児に音楽を教えることになった。バッハの「トッカータとフーガ」。プロでも容易に演奏できない曲目を選び、まだ字もよく読めない、語彙も少ない5、6歳の幼児に教えていった。

 その音は驚愕です。背筋がぞっとするほどの演奏なんです。そのテープはまだ幼稚園に保管してあるはずです。
 ある私立中学でも教えたことがあります。最初は音楽なんてものじゃなかった。2ヶ月くらい経った時、「もしかしたら、関東大会くらいなら出れるかもしれない」と関係者に話したんですよ。驚きましたね。そうしたら、その年、関東大会で1位です。その後関西に行って全国大会に出た。1位です。同じようなことが別の中学でもありました。おそらく教えることなら私は世界一じゃないですか。

 演奏会の終わった後、多くの知人が楽屋を訪れて賛辞を送り祝福するというのは、どこでも見受けられる光景である。あるグループが終演後、その日の演奏に感動し、楽屋を訪れて祝福の言葉をなげた。「先生、おめでとうございます」。その時指揮者は「おめでとうって、何かおめでたいことがあったのですか?」とその人に訊ねたという。その場にいた15、6名の訪問者たちの中に、冷えびえとした気まずい空気が流れた。「私がなぜおめでとう、と言われなきゃいけないんです」

 大阪と東京を行き来していた時代、自分で車を運転して往復していた。ある時大阪から東京の自宅まで運転して戻って来た時大阪に母親の治療器の一部を置き忘れてきたことに気付いた。目の前の家にも入らず、家の前でUターンして大阪まで取りに戻ったという。

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漂流船・フロイデ丸

 コンサートシリーズ「宇宿允人の世界」は宇宿さんの音楽、生き方に共鳴する音楽家が集って結成されたオーケストラによって続けられてきた。
 新宿文化センターで第1回を開催したのが1982年。88年から定期演奏会のスタイルを確立した。中でも中国政府の招聘によって実現した北京・人民大会堂でのコンサート(1997年)は、アンコールが4回にも及ぶ演奏で7,000人の聴衆を魅了した。98年よりオーケストラの名称をフロイデフィルハーモニーとする。妥協を許さない音楽づくりと音楽家との厳しい打ち合わせから表現される精神性、芸術性は「他に類を見ない」と言われている。さらにバレエ音楽「ゆき女(じょ)」をはじめ、作曲・ 編曲も手がけ、これらの作品は独自の芸術領域を開くと評価されている。

 もう少しで150回に達します。でも過去にやった演奏会の思い出に浸るなんていうのは全くありませんね。1つの演奏会が終われば、楽譜の整理と次の演奏会の準備です。むしろ演奏会前より忙しい。

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指揮台の上にその人はいた。

・ワーグナー/歌劇「タンホイザー」序曲
・リスト/ハンガリー狂詩曲第二番 嬰ハ短調 S.244
・チャイコフスキー/交響曲第五番 ホ短調 作品64

ゆっくりとタクトは動いた。
音楽の時。

「死ぬ覚悟」と隣り合わせに、「生きる覚悟」のある人。
苦しみきること。悲しみきること。そして、生ききること。
生きることが哲学だった時代に生まれて、「枯れない」美しさを知った。
なりふり構わず、はいつくばり、しがみつき、若者に「精神」について語り続ける。

最後の曲。楽章が進む。
ひとつの音が立ち上がり、不意に束になり、
人々の胸を突き抜けて消える。
瞬間、新しい音が静かに浮かび上がり、いくつもの音色が次第に重なり、
その人は透明になっていく。
決して重くはないが、その人を取り巻いていたいっさい、
昼に食べたカレーライス、薬殺されようとしていたのを
引き取ってきた3匹の犬、楽譜作成の時に出る紙の切れ端、
息子や娘たち、亡くなった妻、
丹精こめて作った雨の中の裏木戸。
体を覆っていた角質化したそれらが、ひび割れパラパラとこぼれ落ちる。
2ヶ月替えていないベッドのシーツも、激しく学んだ学生時代も、
電気料金の請求書も、楽団と決別したいきさつも、
2、3日前つい吐いてしまった弱音も、詰まった下水管も、
いっさいが体から剥がれ落ち、透明になっていく。

ステージに指揮者はいなかった。
指揮台の上には「音楽」。
ただ 音楽そのものが立っていた。

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