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index -2004 WINTER Vol.32- 倉敷アイビースクエア
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 ■ 鋸屋根に
 ■ 近代産業の担い手、倉敷紡績所
 ■ 社会事業と文化の担い手、大原孫三郎・大原総一郎
 ■ 第二の人生、倉敷アイビースクエア
 ■ 「リノベーション」「リユース」「リサイクル」という創造
 ■ そしてリノベーションは続く


鋸屋根に

 倉敷アイビースクエアの建物は、倉敷紡績所の元工場を改修し再利用している。
 その建物の特徴の一つである鋸屋根は、紡績発祥の地であるイギリス・ランカシャー地方の工場をまねたものである。鋸屋根の採光用天窓は、本来はその地方の太陽高度に合わせて角度が設定されるべきものだが、この屋根の角度はランカシャー地方の太陽高度に合わせた角度のまま、コピーされてつくられている。この本来の機能を欠いた屋根の形態には、西洋に一生懸命追いつこうとした近代国家日本の悲喜劇が透かし見え、さらに時代を経て、その形態が近代産業の象徴として再生保存されていることを思うと、建物とファシリティとが微妙な関係にあることをその存在が明らかにしているようで興味深い。

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近代産業の担い手、倉敷紡績所

 倉敷には、往事の繁栄ぶりを今に伝える古き美しき町並みが大切に保存されており、瀬戸内海にのぞんだ温暖な気候と相まって、緩やかな時間が流れている。
 一方で、明治以降わが国の近代産業の担い手として重要な役割を果たしてきた。
 関ヶ原の合戦(1600年)の後、倉敷は徳川幕府の直領(天領)であったが、明治維新によって天領としての特典を失い経済活動が沈滞した。倉敷の繁栄を取り戻すために、当時わが国の近代化の担い手であった紡績工場が、明治21年(1888年)に建設される。
 明治維新まで備中(倉敷)・美作(久世)・讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府として機能した倉敷代官所は、慶長19年(1614年)大阪冬の陣の時に、備中国総代官・小堀遠州が、幕府の命を受け兵糧米十数万石を大阪に積み出すために米を倉敷に集積し、屋敷を設け陣屋としたことがその起源である。その代官所跡に、倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が建設され、初代社長を大原孝四郎として明治22年(1889年)に操業を開始した。当時としては最も近代的なその紡績工場の設計には、日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所を建設した石河正龍と島田覚人の2人の技術者があたった。
 その後現在に至るまで、日本経済発展と文化育成の一翼を担ってきた倉紡であるが、倉敷紡績所自体は、戦時中の昭和19年(1944年)からは、軍需工場として戦闘機の翼部分を生産、第二次世界大戦後に操業を中止し、建物はそのままに保存され倉庫や社員の教習所などに利用されていた。

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社会事業と文化の担い手、大原孫三郎・大原総一郎

 倉紡は近代日本の経済を牽引する一翼を担いつつ、もう一方で積極的に社会事業と文化活動を展開してきている。その先覚者が二代目社長大原孫三郎であり、その子大原総一郎である。大原孫三郎は、明治・大正期の日本社会事業史に大きな業績を残した、岡山孤児院の創設者であり、「児童福祉の父」とも呼ばれる石井十次とも親交を深めており、病院や学校、家庭的な分散寄宿舎や労働科学研究所などを設立し、先進的な考えのもと、労働環境の向上にいち早く取り組んでいる。そしてまた、大原美術館や児島虎次郎記念館などへ足を運べば一目瞭然であるように、そこに収集された古今東西の美術品や工芸品の膨大な量とその質の高さから、彼らが大いなる文化の保護者であったことが了解されよう。大原父子の事業家としての優れた社会的感覚と道徳精神が、経済の発展のみならず社会福祉と文化活動に大きな貢献を果たしたことは、倉敷だけではなく、後世の私たちにとっても偉大なる遺産にほかならないといえよう。その精神の源は、次のような孫三郎の若き日の日記の言葉に発見することができる。「余がこの資産を与えられたのは余の為にあらず、世界の為である。」(*1)
 その父子の遺志が受け継がれ、その思いの一端が倉敷アイビースクエアとして結実する。

(*1) 建築文化1974年7月号 彰国社

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第二の人生、倉敷アイビースクエア

 倉紡の発祥の地である倉敷紡績所は、女子大への転用計画などが持ち上がりながらも最終的には、その工場建物をホテル・レストラン・広場・工房などに再生利用して、宿泊施設と文化施設が一体となった倉敷アイビースクエアとして1974年に生まれ変わった。
 建物の計画にあたってのオーナーからの要望は、次のようなものだったという。(*2)

1) (i) 倉敷およびその周辺の文化を全国の人々によりいっそう深く理解していただくと共に、
(ii) 倉敷の地にふさわしい日本の伝統工芸を実習を理解していただくことを目的とした、ユニークな宿泊設備と文化施設を実現する。
2) 産業文化財としての価値の高い旧工場建物とその周辺のたたずまいをそのまま保存する。
3) 急増している倉敷来訪者のニーズにこたえる。

 この要望は、倉敷を地方のモデル都市にと構想していた大原総一朗の遺志を継ぐものであり、200mに足らない倉敷川河畔に集中する観光客の人々のニーズに応えつつも、倉敷のより深い理解と地方文化育成を行おうとする高い理念に基づいた計画であったといえる。そして、倉敷アイビースクエアの設計にあたった浦辺鎮太郎その人も、大原総一朗に私淑し、建築を通して倉敷の街作りに大きな貢献をした人であった。
 工場の建物は、石敷の床、蔦の絡まった山陽鉄道型レンガのイギリス積の壁に瓦葺鋸屋根が特徴であった。建物の計画に先立って、東大生産技術研究所・松村貞次郎研究室による詳細な調査が実施されている。その調査報告(*3)によれば、明治22年に竣工した当初工場は、数次におよぶ増、改修によって、物的には殆どその原形をとどめていないが、その位置は変わっておらず一部壁体煉瓦その他に当初の材料構造が含まれていると報告されている。よって、外形そのものに記念性があるというよりも、その位置および一部材料・構造等に、創始者たちの創業の精神とわが国紡績産業史上の価値を設定することが適当であるという判断から、当改修計画が策定されている。
 改修は、工場建物を間引くことによって広場を設け、ホテルとしての機能を満足するように採光や通風を確保し、そしてアイビー学館という展示スペースのみは、工場内部をそのまま保存した。解体によって発生した石材・木材・ガラス・瓦は、建物の様々なところで再利用され、中庭を取り囲む新設の連続するアーチに貼られたタイルは、既存のレンガ壁と連続するように色だけでなく、目地までレンガ積に似せて貼られている。工場の室内温度上昇を防ぐために植えられたという蔦、広場に残る柱の礎石、土蔵造りの原綿倉庫三棟を改装し1969年に開館した倉紡記念館など、空間のそこかしこに散りばめられた歴史の記憶が総体となって、倉敷アイビースクエアのやさしく穏やかな雰囲気がつくりだされた。

(*2) PROCESS:Architecture 31 倉敷:浦辺建築事務所 1982年 プロセス・アーキテクチャア
(*3) 都市住宅1974年8月号 鹿島出版会

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「リノベーション」「リユース」「リサイクル」という創造

 建物耐用年数とは何年なのだろうか。京都や奈良の神社仏閣を例にとれば、補修を行い続ければ、建物の物理的な耐用年数というものはないといえる。建物が取り壊されなければならなくなる最大の原因は、建物のファシリティが時代のニーズに対応できなくなることであろう。倉敷の重要伝統的建造物保存地区の建物は、ファシリティの耐用年数がくるとともに、他の用途にリサイクルされていった。ここで重要なのは、「リノベーション」「リユース」「リサイクル」ということが、過去を現代へと連続させる創造的な試みであるということだ。例えば、重要伝統的建造物保存地区の古い町並みは、昔の姿がそのまま残されているものではない。柳の並木も1960年ころ植えられたものであり、倉敷川も1956年の児島湾の潮止工事によって豊かな水をたたえる美しい川になったという。
 倉敷アイビースクエアも、単に倉敷紡績所の建物を再利用したということだけはなく、倉敷川河畔と連携した都市的な空間資源を提供していること、倉敷がはぐくんだ文化を実習によって体験できる工房などの施設を設置していること、倉敷来訪者に倉敷川河畔に近い宿泊施設を提供しているなど、現代的なファシリティを街に提供することによって、街に新しい息吹を吹込む施設として機能している。そして建物単体としてではなく、歴史的な街並みと共に生きている姿がとても好ましく思える。倉敷アイビースクエアは、過去からの連続した時間を保持しながら、望ましき現代の施設として今日を生きている。

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そしてリノベーションは続く

 そんな倉敷アイビースクエアも、オープンから29年の月日が流れ、その施設自体の改修の必要性も生じてきているようだ。高齢者や障がい者へ配慮した全館的なバリアフリー化やサービス導線の改修など、今日のニーズに合わせて改善すべき箇所が幾つか出てきているという。建物も人間と同じで、絶えず新陳代謝し、よりよく新しくなって行かねばならない。未来永劫不変の完璧な建物のファシリティなど存在しないからこそ、建物は時代やファシリティや人に合わせて変化してゆく必要がある。
 歴史的な建物を保存しかつ現代の施設として利用してゆくことは、お金も労力もたいへん掛かることは想像に難くない。建物に絡まった美しく切り揃えられた蔦も、きれいに保存されたレンガの壁も、運営に携わる人々の努力によって維持されてきたものだ。そしてそれは、大原孫三郎と大原総一郎父子から受け継がれた、倉敷への深い愛情により支えられたものであり、街のため地方文化のために努力を惜しまない人々の力によって守られた珠玉である。
 建物は生き物である。人の愛情が育て、手間隙をかけて世話をされ、時代性に適合したファシリティが与えられ、街や人とともに生きてゆく。倉敷はそのことを私たちにやさしく語りかけている。

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写真提供/倉敷アイビースクエア


参考文献
PROCESS:Architecture 31 倉敷:浦辺建築事務所 1982年 プロセス・アーキテクチャア
建築文化1974年7月号 彰国社
都市住宅1974年8月号 鹿島出版会
建築画報1974年7月号 建築画報社
新建築1974年7月号 新建築社
倉紡記念館と倉敷代官所跡のしおり
大原美術館パンフレット


 

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