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タクミのシクミ テントで世界の屋根を作る。 膜構造建築物 太陽工業株式会社
index -2004 WINTER Vol.33- 太陽工業株式会社 顧問 藪野 正年
表紙・INDEX
カバーストーリー
特集:向井万起男
私風景 〜shifukei〜
タクミのシクミ 〜異業種に学ぶ〜
SIDE STORY
まぼろし博物館
見られたくない/見られたい
ファシリティーズ最前線
編集後記
BACK NUMBER

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歴史に残るイベントを支える 弁当箱の中で風呂敷を作る
テントて何ですねん? 今日なすべきことを明日に延ばすことなかれ
一面に広がる雲の波 最後に待っていた最大の困難
万博・東京ドームを超えて、世界の屋根へ


歴史に残るイベントを支える

 30年以上の歳月を経た今でも日本人の心に大きく残る2つのイベントがある。一つは1964年の東京オリンピック。そしてもう一つが、その6年後に大阪で開催された日本万国博覧会である。当時高度成長の真っ只中にあった日本にとって、国を挙げての一大行事であり、万博そのものが未来であった。
日本万国博覧会  国内企業や各国のパビリオンが技術の粋を集めて百花繚乱のごとく咲き競った中で、ひときわ注目を集めたのが、約1万平方メートルに及ぶ広大な面積を柱のないエアドームで作り上げたアメリカ館である。その屋根にあたるドーム部のテントを製作したのは大阪の太陽工業株式会社。当時、国内ではサーカステントやイベント用仮設テントなどで実績を積んではいたが、彼らにとって1万平方メートルのテント屋根は想像を絶する大きさだった。しかも舞台は世界へつながる万国博覧会。

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弁当箱の中で風呂敷を作る

 テント地による膜構造物には、軽量であること、工期が短いことなど、経済性で大きなメリットがある。開催期間が限られた博覧会にはうってつけの構造物だ。しかし、当時そんな大きさの一枚もののテントなど世界中どこにも存在せず、誰も作ったことがない。当初は一枚ものを諦め、分割案で進めることになったが、最後まで一枚ものにこだわった男がいる。製造の薮野正年だ。
弁当箱のなかで風呂敷をつくる  米国の設計者ですら最終的にはこだわっていなかった一枚ものに彼がこだわったのには理由がある。分割された膜を屋外で、しかも高所の現場作業でつなぎ合わせるのには大きな危険が予想された。「現場でそんなことしてたら、命がいくつあっても足らん。一枚ものでいかせて下さい。責任は私が持ちます」。会議を招集してぶち上げた。
 現場作業の危険を最小限に抑える完全なものを納めたいという強い気持ちが後押しした。それにしても、1万平方メートルものテントを約1千平方メートルの工場の中で作るのである。薮野は思った。「弁当箱の中で風呂敷を作るようなもんやなぁ」

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テントて何ですねん?

 薮野は1941年、大阪の岸和田生まれ。幼い頃からものづくりが大好き。特に「汽車の台車を作りたくてしょうがなかった」と語る。その夢をストレートに実現させるべく、工業高校から汽車製造会社を受験するも惜しくも不合格。「どないしましょ?」と相談に行った教師から薦められたのが太陽工業だった。教師の推薦理由は「自由に何でも溌剌とやらせてくれる会社」。もちろん薮野はその社名すら知らなかった。「テント屋さんですか?テントて何ですねん?」
 全く未知の分野だったテントだが、最初に配属されたのが自動車の内装部門だったのが幸いした。機械好きの彼は「これなら」と思い、仕事に打ち込んだ。その後、自動車メーカーへのアプローチに伴い転勤を続けたが、あるメーカーからの撤退を機に大阪に戻っていた。
 その薮野にある日突然立った白羽の矢が万博関係の膜構造建築物の製造責任者。正式な肩書は枚方工場製造課長兼生産技術課長。実質的に製造のすべてを仕切る大役だ。自動車内装時代に培った製造技術、生産管理の経験が評価された。岸和田生まれならではの熱い血をたぎらせた、弱冠27才の青年であった。

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今日なすべきことを明日に延ばすことなかれ

高周波ウェルダーでテント地を溶着していく。

 工場では約7m四方の塩ビコーティングされたガラス繊維のテント地を、高周波ウェルダーで1枚1枚、2百数十枚溶着して作業を進める。その1枚の布地は一反物を5枚つないでできていた。膜屋根全体の大きさを考えると、気の遠くなるような地道な作業の積み重ねである。
 しかし、着工から納品まで薮野に与えられた時間はわずか45日。各工程の細かい所要時間を綿密に積み上げ、全工程を計算した。もちろん当時パソコンなどない。すべて手計算でやった。溶着の機械は1台。毎日24時間フル稼働してギリギリというのが答えだった。薮野と仲間たちの45日、1,080時間の闘いが始まった。
 彼は自分のことを「人に厳しい」と評するが、この時ばかりは本当に心を鬼にした。納期までに完全なものを上げる。そのためにはすべてが「問答無用」だった。半分は「やけくそだった」とも言う。「今日なすべきことを明日に延ばすことなかれ」。常に自分に言い聞かせながら仲間たちを叱咤激励した。一時に製造にかかる作業員はわずか4名。交代制はとっているが過酷な日々の連続だった。
 ある深夜、薮野が仮眠から戻ってみると、照明が煌々と灯りBGMもかかっているのに誰も人がいない。テントをめくってみると、あまりのつらさに皆その中で思わず寝込んでしまっていた。その姿を見た時は「かわいそうで、ほんまにつらかった」と振り返る。しばらくそのまま寝かせて「もうええやろ」という頃に叩き起こした。周囲は皆、彼のことを本当に鬼のように思っていたらしい。しかし人に厳しいだけではなかった。作業員は交代するが、監督する薮野は毎日仮眠を3時間ほど取るだけ。愛妻と幼な子の待つ我が家へは帰らなかった。何よりも作業員たちの健康状態とケガが心配だった。

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一面に広がる雲の波

雲海のように広がるテントを100人がかりで畳む。

 広大で重いこのテントは裏返すことができず、折り畳みながら作ることができない。工場内に収めるためには、しわを寄せるようにして、できた部分からどんどん脇へ寄せていく。その布地ができていく様は、まさに「雲海」のようであった。
 また、その巨大さゆえに工程の後戻りができないという大きな障害もあった。万一、溶着の不備やパーツの付け忘れがあったら致命的であった。チェックは作業者まかせにせずに、専任の監視役を置き、念には念を入れ、声をかけ合って進めた。今着工している部分、既に作業が終わった部分が明確に把握できるよう、図面を色分けした線で塗りつぶしながら慎重に進めた。
 その雲海も地道な作業の積み重ねの結果、日一日と着実にその面積を広げていき、ついに完成する日がやってくる。パーツの付け忘れや、溶着の不備もまったくなかった。
 しかし最大の困難はこの後に待ち受けていたのである。

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最後に待っていた最大の困難

 完成したテントはトレーラーに乗せて運ぶために折り畳まねばならない。1万平方メートルを約30平方メートルに畳むというこの作業は、想像をはるかに超えるものであった。畳み始めた最初から目の前が真っ暗になる。ここで邪魔をしたのは工場の床だった。塩ビ材の床は塩ビのテント地と吸着作用を起こし、もともと重い布地は引っ張っても引っ張っても容易には動かない。途方に暮れた。ここで薮野が考えた起死回生のアイデアが、下からブロアーで風を送り込んで布地を浮かせて引っ張るというものだった。これで作業はなんとか進めることができた。
折り畳み作業もほぼ終わりトレーラーに積める大きさに。  動かせるようになったものの、敵はあまりに巨大である。しかも畳むための折り目もなかなか出てこない。工場内外から応援を駆り集め、4人で作ったものをなんと100人以上で畳む、丸2日徹夜を敢行しての一大作業となる。「手繰っても手繰っても、まだ出てくる」。時間とともに皆疲労困憊。重いテント地を引っ張り続けるため体も極限状態。最後は薮野がピーッと笛を吹いて、その瞬間だけ気合いを入れ、少しずつ作業を進めていった。「太鼓ももってこよか?」。皆で最後の山を踏ん張り通した。無事折り畳んだテントをトレーラーに積み、納期通りに出荷。帰宅する作業員たちを工場の外で見送った。「やってしもたなぁ。なんとかなるもんやなぁ」としみじみ呟いた。ところが、その後からの記憶が全くない。その場に寝ころんで、そのまま数時間眠り込んでしまったのだ。そこでは鬼は一人の男に戻っていた。

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万博・東京ドームを超えて、世界の屋根へ

 会場へ搬送されたアメリカ館の屋根は、会場で無事施工された。エアが送り込まれ、徐々に膨らんだドームが全部膨らみきった瞬間、「万歳」の声が上がる。皆、涙を流した。実は薮野はこの瞬間には立ち会っていない。彼には次のテントを製造する使命があった。感慨に浸っている時間もなかった。
 この1970年の万博は「テントの花が咲いた」と言われる。文字通り、色とりどりのパビリオンは咲く花のように見えたが、それは太陽工業がテントに託した夢のつぼみが見事花開いた時でもあった。
カライスカキ・スタジアム  それを成し遂げたのは、もちろん薮野たち現場の若手の頑張りも大きかったが、「何が何でも、テントでひと花咲かせる」という経営者の執念にも似た信念が皆を引っ張って行った結果だった。博覧会終了とともにパビリオンは解体されたが、技術やノウハウ、そして大きな自信と信頼が残された。
 その後、建築基準法の改正に伴い正式に恒久建築物として認められた膜構造建築物は、1988年の東京ドーム竣工を経て本格的に大輪の花を咲かせた。現在、国内外において、スタジアムやドーム、駅や空港などの交通施設、商業施設など、太陽工業の膜構造が使われている場所は枚挙にいとまがない。そしてアテネ・オリンピックのスタジアム「カライスカキ・スタジアム」もその中に含まれる。
 あれから34年。薮野たちがテントに託した大いなる夢は、今オリンピック発祥の地で、肉体の限界に挑む世界のアスリートたちを静かに見守っている。

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太陽工業株式会社ホームページ(http://www.taiyokogyo.co.jp/)


タクミのシクミ
あらゆる分野において日々進化する技術。技術は、人の造り出したさまざまなモノの中に隠れています。多くの技術が結集して成り立つこともあれば、ただひとりの手による技術もあります。広義に言えば、方法論やシステムも含まれているかもしれません。いずれにせよ、卓越した技術には、普段われわれが眼にすることのできない「隠れた技」=「匠の技」が存在しているに違いありません。

 
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