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見せないことで見えること なつがしがる みらい
index -2004 WINTER Vol.32- 特集・スペシャルインタビュー セーラ・マリ・カミングス
表紙・INDEX
カバーストーリー
特集:向井 万起男
SIDE STORY
PROFILE
私風景 〜shifukei〜
タクミのシクミ 〜異業種に学ぶ〜
まぼろし博物館
見られたくない/見られたい
ファシリティーズ最前線
編集後記
BACK NUMBER

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 「町が持っている記憶を辿り、何一つ捨てずに、町がかつて持っていた優しさを取り戻すこと」
 “住んでいる町を根本から見直そう”。1980年代の初め、長野・小布施町で小さな会合が開かれていた。
 「そこに暮らす住民がより住みやすく、訪れる人が楽しめるようにするには、どのような町にすればいいのか」。調査、分析、議論、調整、交渉の日々が果てしなく続いていた。地道で忍耐のいる作業だった。
 「町並み修景事業」。行政と法人、個人の地権者が対等な立場で参加するという、それぞれの思惑を考えれば、到底実現に到らないだろうと思われる計画だった。が、幾つもの曲折を経て結実する。日本では例のない規模の「修景事業」は始まった。奥まった路地にある店舗を街道沿いに移し、民家を幹線道路から離れた静かな場所に移築する。歴史的建造物はそのまま生かし、調和のとれた和んだ界隈を作り出す。

 ちょうどその頃、地球の裏側、アメリカ、ペンシルベニア州、ステートカレッジの町はずれの野球場では、地区リーグで紅一点の少女がマウンドに立っていた。
 州立大学のあるその町は、周囲に森が点在する落ち着きのある町だった。教育熱心で、穏やか、人情味豊かな人々の住む土地柄。そこで少女は育った。電子工学のエンジニアであり、ボーイスカウトなどボランティアに熱心な父。小学校の先生をしている母。近くに住む祖母は毎週末にキルトを教えてくれる。
 やがて自分が日本の小さな町にやってきて、傾きかけた造り酒屋を甦えらせ、様々な手法で町全体の活性化に取り組み、さらには不況に苦しむ全国の経営者たちを勇気づけることになるとは、その時、少女は思ってもみなかった。
 そう、金髪のサウスポーは次のバッターを打ちとること以外、なーんにも考えていなかった。
 セーラ・マリ・カミングスさん(35歳)。
 卓越した数々のアイデアをビジネスに活かし、地域とともに歩む活動が評価されて、日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」を受賞した。

 



気付かずに同心円 社内より先に町が認めてくれた
他者への柔らかな眼差し・小布施 本質を言葉にくるんで
伝統に“今”を吹き込む ゆったりと急ぐ


 
気付かずに同心円

 セーラさんが小布施にやって来たのは10年前。
 ぺンシルベニア州立大学在学中、関西外国語大学に一年間交換留学生として大阪で暮らし、長野オリンピック開催時にはボランティアスタッフとして活動したいという思いを抱く。卒業後、長野市にある会社の研究施設に就職。
 「伝統文化が残っている地方都市で働きたかったんです。オリンピックを意識していたので長野が好都合でした」
 つらい思いをするのは、覚悟の上だった。しかし会社は年功序列型の組織、五輪組織委員会は役所体質で、彼女が望んだ自由な活躍の場はなかった。不完全燃焼のまま、勤めていたシンクタンクとの契約が間もなく切れようとしていた。「小布施に栗菓子製造と造り酒屋をやっている人がいる。会ってみると面白いかもしれない」そんな話を聞いた。その日のうちに連絡を取り、その日のうちに自転車で3時間の道のりをやって来て、その日のうちに入社が決まった。
 その時彼女を採用したのは、小布施堂社長・桝一市村酒造場17代の市村次夫氏である。
 「町並み修景事業が終わって五、六年が経っていました。以前よりは活気のある町になって、安定していた。けれど、安定は停滞にも通じます。地域も企業も、常に異分子が存在しないと停滞してしまうと思うんです」
 どこかにカオス(混沌)があると、それを修復しようとする力とぶつかり合ったり、パニックになって場が活性化する。そこを通過しないと新しいステップに行けない。その意味で彼女は充分に「異分子」だった。
 経営企画室に配属されたセーラさんの仕事は文化事業の開拓とその推進役だった。
 「社長は私にチャンスだけくれたんです。『あとは自分で考えなさい』でした。それだけだったんです。自分はここで一体何ができるのか? 必死で考えました」
 ただ一つ、市村社長が伝えたこと、“雑巾はたたんで拭くように”。「余計な摩擦は避けろ」ということ。
 「これはどの国でも同じです。あとになって国際北斎会議の開催のために米国や欧州で折衝した時も、このことを念頭に入れて進めると物事がずっとスムーズに運びました。でも、一番大事なのは、正しいと思ったらしゃにむに努力して頑張り続けることです」。首輪を付けられることはなかった。
 それが自分の守備範囲であろうがなかろうが、思いつくこと、気付いたこと、次々と発言し提案する。
 社員たちの戸惑い、提案の拒否。何度否定されても、挫けることはなかった。
 「私はよそ者。日本人じゃないし、根を下ろしきっているわけでもない。決まった 『立場』がないことは実は強いことで、だからこそいろいろなことができたのだと思う。『よそ者であること』を障壁と思わなければ、むしろ強みになるんです」
 様々なシーンで彼女が残した言葉がある。
 「今でも孤独を感じることはしょっちゅうですが、会社に仲間がいなかったからこそ、馴れ合わないで済んだんです」
 「『しかたない』という言葉を今の日本人は使いすぎる」
 「駄目だ、と言われるのは良いこと。どこが駄目なのか、プランを考え直すでしょう?」
 「何事にも遊び心を忘れない」
 「ノーと言われたら、内容に説得力がなかったのか、自信がないと思われたのか、 タイミングが悪かったのか、その理由を考えました」

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社内より先に町が認めてくれた

 入社4年目、1998年に最初のビッグウェーブがやってきた。2月に長野オリンピック開催。ここでは英国選手団アシスタント・オリンピック・アタッシェ(民間特命大使)に任命され選手団の面倒を見る中、アン王女主催の英国五輪選手団の激励会をプロデュースする。
 翌々月、学術会議「第3回国際北斎会議」を小布施で開催。それは地方の小さな町を一躍全国区に押し上げる出来事だった。その年10月には、250年前の酒蔵の一部を改築によって伝統の寄り付き料理(酒造りの蔵人が食べる食事)を供する「蔵部」(くらぶ)へと生まれ変わらせた。そのオープンに合わせて、前年から取り組んできた新しい銘柄酒「□一(スクウェア・ワン)」を完成させる。こうして記すと何行かの言葉で済んでしまうが、それぞれの細部に宿ったこだわりと綿密、決して諦めることのない突き詰め方は凄まじい(これらがどのように交差しあい進行していったかは 『セーラが町にやってきた・清野由美著(プレジデント社)』に詳しく記されている)。
 例えば、レストラン「蔵部」のプロデュース。
 市村社長は酒蔵の一部を改装して、品質のいいレトルト食品と自社銘柄の酒を出すレストランを計画していた。そのプロジェクトは彼女の範疇外だったが、ただ一人彼女は強く反対した。
 「ロマネコンティがドライブインを始めるのと一緒です」と厳しい口調で言うと、「余計なお節介」「君に頼んでないよ」と言われた。来る日も来る日も反対を主張し続けた。「自社の酒の品位を落とします」。それは日を追うにつれ激しさを増した。関西の大学に留学していたから「酒屋がおのれの酒守らんでどないすんねん! 誰が守るいうねん!」と言ったかどうか。
 「そこまで言うなら辞めたら?」「辞めます」という時期が続く。しかし、長野オリンピック終了までの契約が残っていた。「修景事業を実現した人が“とりあえず”のビジネスをしていいんですか」。250年続いた老舗の造り酒屋が現代の風潮に流されていくのが辛かった。「だったら代替案はあるのか?」「2週間で作ります」
 市村社長が施工会社に中止の連絡を入れたのは工事の始まる3日前、彼女が言い出してから半年が経っていた。「予算は当初計画していた10倍以上かかる。それでなくとも小布施という町で夜間営業するということ自体かつてなかったことです。果たして客は来るのか、実験的な要素が多かった。でも、このことで町がまた新しい表情、磁力を持ち始めるなら、やってみる価値はある。『継続』ではなく『創業』なんだ、と思ったら楽になりましたね」
 後に「小布施方式」とまで言われるようになった「町並み修景事業」を副社長の市村良三氏とともに発案し、全身全霊をかけて最後までやり遂げた人である。決まってからの行動は早かった。
 かねてからセーラさんの意識の中にあった建築家が香港を拠点に仕事をしていることを知りコンタクトを取る。慌ただしく作成した企画書を携え、社長に同行を依頼して3日後には香港に飛んだ。
 「建築について素人であるなんて、問題じゃありません。どんなことをしたいのか、その思いが大事です。時間がないとか、お金がないとか、そういう時がいい時です。ピンチの時こそチャンスなんです」
 初対面のその建築家は彼女の熱意と誠実に向かい合った。「蔵部」プロジェクトがスタート。
 そのオープンに合わせて客に出す新しい酒造りも前年から始めていた(その二年前に欧米人としては初めて利酒師の認定を受けている)。同時進行しなければならない案件が山のようにあった。
 「第3回国際北斎会議」は当初、「小布施北斎研究会」というセーラさんの立ち上げた自発的なグループ活動の一環にすぎなかったが、ベニスでの調印式直前に町が主催者になることが決定し、にわかにスケールをもった市民イベントへ膨れ上がりつつあった。
 そしてその先が彼女ならではの展開になる。あふれそうなスケジュールの器に新しいプランを次々と注ぎ込む。工事中の「蔵部」を一時、別の改装を施してアン王女主催の英国五輪選手団の激励会を開く。北斎会議の際、訪れる人々の役に立つ公式ガイドブックの制作を急遽、発案し取りかかる。客の視点から全てを発想していくという姿勢を決して崩さない。
 この年の秋、セーラさんは小布施堂・桝一市村酒造場の取締役になった。
 「事務能力でいえば、私も含めた並みの人材かもしれない。でも、独創性や交渉力や断行力は一般的な経営者より数段突出している」

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他者への柔らかな眼差し・小布施

 市村社長の五代前、幕末の陽明学者、豪商の高井鴻山が浮世絵師の葛飾北斎を度々小布施に招き、その縁あって北斎はこの地に数々の作品を残した。それが「北斎館」の開館へつながり、界隈の修景事業に発展、今では北斎だけでなく、あかりの博物館、現代絵画、陶磁器など半径2kmにも満たない中心部には公、私立合わせて12の文化施設が立ち並ぶという自然な連鎖を生んだ。年間120万人が訪れる町となった小布施だが、町の気配に浮ついたところが微塵もない。他者を柔らかく受け入れる資質をこの町は持っている。
 昭和に入ってカナダ人宣教師ウォラー博士がサナトリウムを建設しようとした時、結核という『亡国病』を恐れて30以上の町で反対運動が起きたが、小布施は受け入れている(現在の新生病院)。
 第三セクター方式の町づくりを目指す会社「ア・ラ小布施」は、地元農林加工品の製造・販売を全国的に展開する一方で、ガイドセンター、ゲストハウスを運営し、ヨーロッパ、中国等海外から奏者を招き「小布施国際音楽祭」を催したり「北信濃小布施映画祭」を開催するなど、内外から人を惹きつける数々のイベントを行ってきた。

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本質を言葉にくるんで

 この10年、様々なプランを実現してきたが、セーラさんに言わせると「実現したのは十分の一くらい」。プロジェクト名やイベントタイトルは必ずといっていいほど、言葉をのびのびと遊ばせている。
 レストラン「蔵部」の命名も蔵の一部を改築したから「蔵部(くらぶ)」。
 毎月1回、各界で先駆的な仕事をしている人を講師として招き、知的で有効な情報交換を行った後にオシャレ、かつ気楽においしい小布施の料理と酒を楽しみながら、面白い出会いを重ねる会を開いている。「強い思い」「アイデア」「意欲」の英語 obsession をもじって、会の名前は「小布施ッション」。一年ごと書籍にしているが、2002年からはバイリンガルで海外にも発信するようになった。
 元旦、正月でも動き出せるように餅つきをして配っている。「餅ベーション」
 毎月15日と30日にゴミを拾い続けるボランティア活動を開始した。市がゴミゼロになる。「1530」
 小布施の電柱を100%埋めることを目標に2002年2月3日、運動を開始した。 2月3日は節分の日。「鬼は外電柱は内」
 ハーフマラソン(ミニマラソン)を開催している。走るだけでなく、見るのも楽しい、という意味を込めて「小布施見にマラソン」
 それら一つひとつのプランに、町の人たちがふれあい、理解を深めるような仕掛けが巧みに隠されている。分かりやすく、親しみを感じるタイトルの向こうに深い文化の香りと内容が見えてくる。

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伝統に“今”を吹き込む

 職人がたくさんいる町にしたい、とセーラさんは言う。そのためには、職人の仕事を作らなくては。
 桝一市村酒造場に50年ぶりに木桶仕込みの酒を復活させたのもセーラさんだ。桶作りの職人を探し出すこと、米の手配、桶仕込みの経験のある杜氏を説得すること、粘り強く地道な働きかけが四年前に実を結び、2,000本限定の「白金」として発売にこぎつけた。
 「木桶につく微生物が微妙に作用して複雑な味が出る」
 「酒は不純物が入ることで、深さを増すことがある」
 自身の生きてきた中にその言葉と符合するカードがあったのだろうか。ともあれ闇に落ちようとしていた“木桶仕込み”という日本の伝統は、懸命に伸ばした彼女の指先に、かろうじて引っかかった。
 その後全国の酒造会社に呼びかけ「桶仕込み保存会」を発足。現在では十数社の酒蔵が桶仕込みに挑戦している。レトロ感覚ではない。「本物の職人のルーツは一度途絶えたが最後、甦えることはない」
 消えようとする職人技の仕事を無理のない形で作り出し、人をそこに送り込む。彼女がこの小布施でしてきたことは正に人間のパッチワークではなかったか。今、燻瓦を達磨窯で焼くことを復活させようと試み始めている。

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ゆったりと急ぐ

 待っていた部屋に入ってくるなり「もうすぐ暗くなります。今のうちに写真を撮りましょう」。あっと言う間に外へ出る。速い。栗の木のブロックを敷きつめた小道をぐんぐん進んでいく。数名の職人が茅葺きの屋根を葺くために束にした茅を敷きつめている。度々この地を訪れた葛飾北斎が大きな作品を作る時に使ったアトリエを復元しているのだという。職人たちに声をかける。それぞれの名前も役職も、得意なことさえも憶えている。
 酒造場本店前の通りを隔てた向いの廃屋に案内された。新しいオフィスにするため改築を始めるという。使える素材は全て残す。以前、写真館だったというその建物は格別良質な素材を使っているわけでなく、むしろ通常なら解体業者が全て押しつぶして廃棄物として持ち去るほどのものだ。裏手には少し奥行きのある庭があり小さな流れが横切っている。雑草が生い茂り、その中から前人の残していったプラスチックの物干し台が無残な姿で傾いている。庭へ通じる引き戸から荒れ果てた庭を眺めながら、「いいところになりますよ。雑草も少し残してね」。いいところ? 雑草も残して?
 彼女には完成形が見えているのだ。ちょうど彼女が小布施に初めてやって来た日、まだ何者とも分からぬセーラさんから市村社長が何かを感じ取ったように。

 ゆったりと急いでいる。
 絶えず説明を加えながら、時速7kmで歩き、吸殻を素早く見つけ拾い、剥がれかけたポスターを直し、道行く人に声をかけ、今やっていること、あるいはこれからやろうとしていることについて、流れるように話し、その間にも吸殻の発見に余念なく、だが、ゆったりとして見える。何故なら彼女の瞳には少しも焦りの色が浮かんでいない。

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殺到する取材や講演の依頼も断ることが多い。
「取材を受けるというのは、やっていることや終わったことの説明です。説明しているより今やらなければならないことがいっぱいあります」
この人には過去、成し遂げた様々を懐かしがる時間はない。
もしあるとしたら、この人は「未来を懐かしがっている」のだ。
やがて来る未来を、さらに先の未来から振り返った時、真に懐かしく思える。
未来を懐かしがるために、この人は片時も休むことなく、それでも優雅に、新しい一瞬に踏み込み続ける。

町が夕闇の中に浸った。
「蔵部」で、セーラさんが最初にプロデュースした酒「□一(スクウェア・ワン)」を飲む。
日本酒本来のうま味を追求したという辛口のそれは
「昔のオヤジさんが喜ぶ」ことを目指してつくったという。
キーワードは「なつかしさ」
味蕾(みらい)が懐かしがっていた。




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