1894年5月18日 富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれる。旧姓・五島鉄郎、五人兄弟の三男。郵便局長の家系に生まれる。高岡中学、四高を経て、1919(大正8)年東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。同年、戸出物産社長の吉田仁平の長女芳枝と結婚、養嗣子となり、以後、吉田の姓を名乗る。
Biography
吉田鉄郎 よしだ・てつろう 1894年(明治27)-1956年(昭和31)
富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれた逓信省の建築家。東京中央郵便局に代表される、日本独自のモダニズム建築を切り拓いた。
※本バイオグラフィーは、既往文献に見られるような時代区分は設けず、吉田鉄郎の生涯における主要な出来事を時系列で示したものです。
1894年5月18日 富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれる。旧姓・五島鉄郎、五人兄弟の三男。郵便局長の家系に生まれる。高岡中学、四高を経て、1919(大正8)年東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。同年、戸出物産社長の吉田仁平の長女芳枝と結婚、養嗣子となり、以後、吉田の姓を名乗る。
肺結核のため、療養
1923(大正12)年 吉田29歳 関東大震災が起こる。
1933年 ブルーノ・タウト来日
日向別邸は、実業家日向利兵衛の別荘の1つとして建設された建物で、上屋の設計は渡辺仁によるものであった。その地下部分を居室として改修し、その設計をブルーノ・タウトと吉田鉄郎が担当した。タウトは離日を前にして日本滞在中の親しい友人との別離を惜しみ、日向別邸完成の披露とともに熱海に招いた。
1944年 吉田鉄郎から小坂秀雄氏への手紙
1946年 日本大学教授となる
吉田鉄郎の業績としては、庁舎や住宅など数多くの建築設計作品とドイツ語で出版された日本の住宅、建築、庭園などの著作が大きな部分をなすが、終戦の翌年の1946年5月から4年近く担当した日本大学での教育も重要な仕事である。吉田は建築計画分野の講義と建築設計製図の演習を担当した。実務経験豊富で海外の建築界の事情に精通している吉田から学生は多くの示唆を得た。教えを受けた学生は、吉田の業績を後世に伝えることにも貢献した。
1949年(昭和24)に脳腫瘍を発病した吉田鉄郎は、やがて手足の運動神経が侵され、ペンをとることさえ不可能になり、仰臥の姿勢のままであった。吉田を師として仕えていた澤寅吉は、吉田のスケッチをトレースして設計図を書き起こし、北陸銀行の新潟・長野・福井片町の三支店と東京の代々木寮を完成させている。吉田は、澤寅吉との手紙や電報のやりとりにより設計を進めていった。
やがて全身が麻痺した鉄郎は、最後の力を振り絞り、口述筆記によって独文『日本の庭園』と『スウェーデンの建築家』の執筆を行った。『日本の庭園』の最終原稿を、出版社であるドイツのワスムート社に送付した1週間後の1956年(昭和31)9月8日午後1時30分、自宅で息を引き取った。享年62歳。
逝去後35年に有志により墓域を整備。
逝去後35年の歳月が経過した1990年(平成2)に日本大学で教え子だった近江榮の提言によって、中田亮吉、小坂秀雄、国方秀男、薬師寺厚、所寅雄、大澤秀行、森俶朗、内田祥哉、高浜久男、矢作英雄、戸田道男、田中順三、郵政省、NTTの建築家と、近江榮、向井覚の計14名が発起人となって、墓域整備の募金が呼びかけられ、小坂秀雄の設計、共立建設株式会社の施工で1991年(平成3)8月に完成。同年9月8日の命日に遺族とその関係者が集い、納骨の法要が営まれた。
リニューアルにより今も使い続けられている吉田作品(代表作品の一部)