Biography

バイオグラフィー

吉田鉄郎 よしだ・てつろう 1894年(明治27)-1956年(昭和31)

吉田鉄郎の肖像
1931年頃(37歳頃)パスポート写真 所蔵:NTTファシリティーズ

富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれた逓信省の建築家。東京中央郵便局に代表される、日本独自のモダニズム建築を切り拓いた。

1894(明治27)
5月18日 富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれる。旧姓・五島鉄郎、五人兄弟の三男。
1919(大正8)
東京帝国大学を卒業し、逓信省に入省
1923(大正12)
旧京都中央電話局上分局・竣工
1925(大正14)
検見川無線送信所・竣工
1931(昭和6)
東京中央郵便局・竣工
視察のため欧米出張
1935(昭和10)
ドイツ語版「日本の住宅」をドイツで出版
1939(昭和14)
大阪中央郵便局・竣工
1946(昭和21)
日本大学教授となる
1949(昭和24)
脳腫瘍発病
1956(昭和31)
9月8日 逝去(享年62歳)

※本バイオグラフィーは、既往文献に見られるような時代区分は設けず、吉田鉄郎の生涯における主要な出来事を時系列で示したものです。

1894 — 1919
学生服の青年期の吉田鉄郎
青年期 (学生時代)
吉田鉄郎と芳枝夫人の婚礼写真
1919(大正8)年 結婚
机に向かう青年期の吉田鉄郎
青年期 (逓信省営繕課)

1894年5月18日 富山県旧福野町(現在の南砺市)に生まれる。旧姓・五島鉄郎、五人兄弟の三男。郵便局長の家系に生まれる。高岡中学、四高を経て、1919(大正8)年東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。同年、戸出物産社長の吉田仁平の長女芳枝と結婚、養嗣子となり、以後、吉田の姓を名乗る。

1920 — 1921

肺結核のため、療養

茅ヶ崎での療養
1921年頃(27歳頃 茅ヶ崎 結核の療養先)
1923

1923(大正12)年 吉田29歳 関東大震災が起こる。

旧山田郵便局電話分室
1923 旧山田郵便局電話分室【現存】
旧京都中央電話局上分局
1923 旧京都中央電話局上分局【現存】
1925
検見川無線送信所
1925 検見川無線送信所・竣工【現存】
建設中の検見川無線送信所
1925 検見川無線送信所・竣工【現存】
逓信省で製図をする吉田鉄郎
1926年頃 逓信省で製図をする吉田鉄郎(32歳頃)
1927
同人誌『構想』第2号の似顔絵
同人誌「構想」第2号より
逓信省の営繕課の同僚を表現
同人誌『構想』第2号の似顔絵
同人誌「構想」第2号より
逓信省の営繕課の同僚を表現
東京中央郵便局の地鎮祭
東京中央郵便局 地鎮祭 1927(昭和2)年
吉田鉄郎(最前列左から二番目)
1930
1930年、後楽園でのレセプション
1930 ノイトラ来日
同世代の建築家とともに。
吉田鉄郎(前から2列目右から2番目)
1931
1931年の東京中央郵便局
1931 東京中央郵便局・竣工
パスポート写真の吉田鉄郎
1931年頃(37歳頃 パスポート写真)
ブレーメン号の船上の吉田鉄郎
1931年7月から約1年間欧米出張(ブレーメン号にて)
1933

1933年 ブルーノ・タウト来日

日向家熱海別邸での集まり
・1936年 旧日向家熱海別邸地下室
(タウトの設計に協力)【現存】

日向別邸は、実業家日向利兵衛の別荘の1つとして建設された建物で、上屋の設計は渡辺仁によるものであった。その地下部分を居室として改修し、その設計をブルーノ・タウトと吉田鉄郎が担当した。タウトは離日を前にして日本滞在中の親しい友人との別離を惜しみ、日向別邸完成の披露とともに熱海に招いた。

1935
独文『日本の住宅』1935(初版)
独文『日本の住宅』1935(初版)
1935年 ドイツ語版「日本の住宅」をドイツで出版
1939
1939年の大阪中央郵便局
1939(昭和14)年 大阪中央郵便局・竣工
1944

1944年 吉田鉄郎から小坂秀雄氏への手紙

吉田鉄郎から小坂秀雄氏への手紙(手書き)

「私はやはり建築家は建築を通じ、建築に精進することによってのみ、世の中に最もよく役立ち得るのだと思うのです。私は建築に対する才能とか感覚とかいうようなものはまるっきり持っていませんが、ただ年甲斐もなく情熱だけはもっているつもりですから、ほんとうに御一緒に建築の勉強をしましょう。」

1946

1946年 日本大学教授となる

日本大学教授時代の吉田鉄郎
1947年頃(53歳頃 日本大学教授(1946~1955))

吉田鉄郎の業績としては、庁舎や住宅など数多くの建築設計作品とドイツ語で出版された日本の住宅、建築、庭園などの著作が大きな部分をなすが、終戦の翌年の1946年5月から4年近く担当した日本大学での教育も重要な仕事である。吉田は建築計画分野の講義と建築設計製図の演習を担当した。実務経験豊富で海外の建築界の事情に精通している吉田から学生は多くの示唆を得た。教えを受けた学生は、吉田の業績を後世に伝えることにも貢献した。

講義ノート「Design Plan」(近江榮) 講義ノート「設計計画第一 吉田鉄郎教授 1950.4.21」(末松政孝)
上:講義ノート「Design Plan」(近江榮)、
下:講義ノート「設計計画第一 吉田鉄郎教授 1950.4.21」(末松政孝)
(所蔵:日本大学理工学部)

1949年(昭和24)に脳腫瘍を発病した吉田鉄郎は、やがて手足の運動神経が侵され、ペンをとることさえ不可能になり、仰臥の姿勢のままであった。吉田を師として仕えていた澤寅吉は、吉田のスケッチをトレースして設計図を書き起こし、北陸銀行の新潟・長野・福井片町の三支店と東京の代々木寮を完成させている。吉田は、澤寅吉との手紙や電報のやりとりにより設計を進めていった。

1950
荻窪の自宅で療養中の鉄郎と芳枝夫人
1950年頃(56歳頃 『アサヒグラフ』)
荻窪の自宅で療養中の鉄郎と芳枝夫人
1951
北陸銀行長野支店
北陸銀行長野支店 1951年
北陸銀行新潟支店
北陸銀行新潟支店 1951年
1952
ドイツ語版『日本の建築』
独文『日本の建築』1952
1954
独文『日本の住宅』1954(改訂第2版)
独文『日本の住宅』1954(改訂第2版)
1956

やがて全身が麻痺した鉄郎は、最後の力を振り絞り、口述筆記によって独文『日本の庭園』と『スウェーデンの建築家』の執筆を行った。『日本の庭園』の最終原稿を、出版社であるドイツのワスムート社に送付した1週間後の1956年(昭和31)9月8日午後1時30分、自宅で息を引き取った。享年62歳。

1957
ドイツ語版『日本の庭園』
独文『日本の庭園』1957
『スウェーデンの建築家』
『スウェーデンの建築家』1957
1991

逝去後35年に有志により墓域を整備。
逝去後35年の歳月が経過した1990年(平成2)に日本大学で教え子だった近江榮の提言によって、中田亮吉、小坂秀雄、国方秀男、薬師寺厚、所寅雄、大澤秀行、森俶朗、内田祥哉、高浜久男、矢作英雄、戸田道男、田中順三、郵政省、NTTの建築家と、近江榮、向井覚の計14名が発起人となって、墓域整備の募金が呼びかけられ、小坂秀雄の設計、共立建設株式会社の施工で1991年(平成3)8月に完成。同年9月8日の命日に遺族とその関係者が集い、納骨の法要が営まれた。

多磨墓地の吉田家墓所
設計:小坂秀雄
建立:1991年(平成3)8月

リニューアルにより今も使い続けられている吉田作品(代表作品の一部)

旧京都中央電話局上分局
旧京都中央電話局上分局 撮影:南一誠
KITTE丸の内(東京中央郵便局)
KITTE丸の内(東京中央郵便局) 撮影:南一誠
旧山田郵便局電話分室
旧山田郵便局電話分室 撮影:鈴木文人
新風館(旧京都中央電話局)
新風館(旧京都中央電話局) 撮影:フォワードストローク