2020年に公開された「人材版伊藤レポート」をきっかけに、人的資本経営は広く浸透し、日本企業の経営や組織のあり方に大きな影響を与えました。本企画では、その人的資本経営を提唱し、経産省のプロジェクト座長や内閣府の委員を歴任した一橋大学名誉教授の伊藤邦雄さんに、全2回にわたってお話を伺います。前編では、人材への投資や人的資本情報の開示などの施策が広く認知された現在、伊藤さんは日本企業の現状をどのように見ているのか、お聞かせいただきました。
企業価値向上の取り組みから「人」に目を向けるように
人的資本経営が認知されるようになって、しばらく経ちました。私が座長を務めた経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」が「人材版伊藤レポート」を公開したのが2020年です。当初は「人的資本経営」が、これほど世の中に広がるとは思いもしなかったので、提唱者の一人として驚くとともに、「人」が経営のテーマの中心になったことを喜ばしく思っています。
「人材版伊藤レポート」を公表するに至るきっかけは、公開から遡ること6年前、2014年に経済産業省が公開した「『持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~』プロジェクト(伊藤レポート)」の最終報告書が発端です。この「伊藤レポート」では、日本企業の持続的な企業価値向上を目的に「ROE(自己資本利益率)8%以上の確保」を提唱しました。「失われた30年」といったフレーズに象徴される、日本企業の長期停滞を打開するため、企業と株主の共創による長期的な企業価値創造を促すのが狙いでした。
この伊藤レポートは当初、欧米型金融資本主義への追従とも受け取られ、一部からは厳しい目を向けられましたが、今や上場企業が経営において株価や資本コスト(株主が投資に対して期待するリターンの最低値)を意識するのは一般的になりました。また、直近では、日本の上場企業のROE平均値は10%弱まで向上しました。伊藤レポートが日本企業の経営に少なくない影響を与えたのだと実感しています。
しかし、株価やROEの向上はあくまでも提言の一つであり、最も重要なメッセージは「日本企業の長期的な価値向上」です。その実現に向けては、コーポレートガバナンスの強化やイノベーションの創出などに加え、日本企業における「人」への向き合い方を見直す必要がありました。
「日本企業は人に優しい」は本当か
実は、伊藤レポートを発表する前から、私は近年の日本企業の「人」への向き合い方に違和感を持っていました。例えば、「日本企業は外資系企業に比べて人に優しい」というイメージが一般的だとされています。たしかに日本企業では外資系企業で見られるような、ある日突然に有無を言わさず解雇を宣告されるようなことは多くありません。しかしその一方で、雇用の維持と引き換えに、半強制的な転勤や転属、長く勤めても昇給・昇格しないなど従業員の意向と異なる雇用状態が散見されます。これは果たして「人に優しい」と言えるのかと、長年疑問だったのです。
また、従業員の成長やキャリアの向上という点でも疑問が残ります。30〜40年間という長期にわたって雇用が保障されていれば、人間はどうしてもエネルギーを平準化しようとします。しかし実際の業務の中では、一定期間集中してエネルギーを投入することで得られる成長や成果が確実にあります。長期にわたる雇用の保障は、従業員一人ひとりの価値向上を阻害する要因になっている可能性もあります。
また、質の良い労働環境は人間の成長を後押ししますが、質の悪い労働環境ではその人の能力やモチベーションを縮減させてしまいます。つまり経営における人材は、環境や条件によって価値を大きく変動させる流動的な「資本」なのです。
人材を「コスト」や「資源」ではなく、「資本」と捉えることが人的資本経営のコンセプトです。企業が従業員のスキルアップやエンゲージメント向上に投資することで、人材の価値が高まり、長期的な企業価値の向上が実現できます。「人材版伊藤レポート」は検討会の委員により共同で執筆したため、必ずしも私の考えだけで構成されているわけではありませんが、その根本には、私が長年感じていた日本企業の人材に対する姿勢への違和感が反映されています。
「自由」と「規律」 が人材の能力を引き出す
日本企業の旧来的な人材観に違和感を覚えるなかで、理想的な組織として念頭に置いていたのは、アメリカの大手化学系メーカーでした。その企業では「艦長は血が出るまで舌を噛む(The captain bites his tongue until it bleeds)」という格言が社内で根付いていました。企業組織を船に喩え、艦長たる上司は、部下の操艦が仮に危なげであったとしても、ぐっと舌を噛んで手を出さずに耐えるべき(権限移譲すべき)だというものです。
この言葉には、その企業の組織文化が凝縮されています。昨今、勤務時間の一部を業務以外に充ててよい「10%ルール」などの制度を導入する企業が増えていますが、そのメーカーでは数十年前から実践されていました。しかも単に自由を与えるだけでなく、従業員一人ひとりに極めて高い目標やKPIを求める厳格な面も持ち合わせていました。
つまりこの組織では、従業員に与える「自由」と「規律」のバランスが絶妙だったのです。こうした組織では、高いモチベーションとエンゲージメントで仕事に臨むことができます。
一方で、旧来的な日本企業は、従業員にとって与えられる「自由」は少ないが、目標達成への「規律」も少ないことが特徴で、どうしても受け身になってしまいます。上司の命令に唯々諾々と従うことが最適解になるからです。私はキャリアを通じて、何千、何万の経営者と議論をしてきましたが、日本企業の経営者はいつの時代も従業員の「受け身の姿勢」に頭を抱えていました。
人的資本経営では、従業員の能力を最大限に引き出すことが求められます。その意味でも、「受け身の姿勢」の解消と、「自由」と「規律」のバランスは、人的資本経営を実践する企業にとって極めて重要な取り組みになると思います。
「日本企業はチームワークが強み」は「神話」である
日本企業における人的資本経営の現状を見てみましょう。ポジティブな面を挙げると、「人」が経営の重要なテーマになった点は、極めて好ましい変化だと思っています。最近では、上場企業がCHRO(最高人事責任者)を配置する例が増えました。また、経営者が人事担当役員と毎週のように対話をするという話もよく耳にします。そのほか、人事畑ではない人材や外部から採用した人材を、人事の管理職に据えるケースも増えているようです。これは「人を経営の中心に置く」という意思の表れだと思います。
その一方で、私が監修した通称「伊藤版Well-beingスコア」による1万人調査によれば、自律的キャリア形成に関するスコアが、他の項目に比べて低いことが分かりました。終身雇用や年功序列といった日本的雇用慣行の影響は根強く、自律的にキャリアを開拓するという意識が低いままなのだと思います。
人的資本経営は人材を「管理する対象の資源」ではなく「価値創造のための資本」として捉えます。そのため、従業員のキャリア形成を指示監督するのではなく、従業員一人ひとりが自律的にキャリアを高めていくよう促さなければいけません。
また、「職場の一体感」も十分ではありません。この点を意外に思われる方は多いのではないでしょうか。日本企業といえば、家族主義的で仲間意識が強いイメージがあります。一方で、欧米の企業は個人主義的でドライなイメージです。
しかし、実態は真逆だと思います。むしろ、欧米の企業は個人主義的な価値観がベースにあるからこそ、「職場の一体感」を形成するためにあの手この手を尽くします。アメリカの某組織に赴任した私の知人も、週末にはピクニックやボランティアなど、チームビルディングのための活動が目白押しだったといいます。
その反面、昨今の日本企業はどうでしょうか。飲み会が忌避されるようになって久しいですし、「プライベートには干渉すべきでない」という空気は年々強まっています。「日本企業はチームワークや結束力が強み」という見方は、もはや「神話」なのです。
「やっている感」から「やれている感」にシフトするには
日本企業の人的資本経営の現状を概観すると「組織として取り組む意思は高まっているものの、各施策の展開はもう一歩」といったところだと思います。実際、ある人事担当者が「『やっている感』はあるが『やれている感』がない」と話しているのを耳にしたことがあります。人的資本経営に関する社内での機運は高まっているものの、成果に結びついている実感がないのでしょう。
なぜ、こうした状況に陥るかといえば、従来の習慣を温存したままで、各施策を実践しているからです。人的資本経営は「パラダイム変革」でもあります。人材をめぐる既存の文化や常識を一変させたうえで各施策を展開しなければ、十分な成果は望めないのです。
例えば、人的資本経営の一環としてしばしば、従業員が自ら手を挙げて異動する「ジョブポスティング」制度が設けられますが、これは人事部門が掌握していた人事権限を従業員に一部委譲する制度とも言い換えられます。しかし人事部門が「人事権限を手放す」という覚悟がないままジョブポスティングの制度を設けても十分に活用できないでしょうし、期待した成果も得られません。
では、誰が組織の「パラダイム変革」を主導するのか。それは経営者に他なりません。経営者自身が、人的資本経営の本質を解像度高く理解する。人事担当役員と頻繁に対話して、「人」を中心とした経営とは何かを思索し、実践する。そうした活動がなければ、組織の習慣や価値観を一新することはできないでしょう。
加えて、経営者を支える人事部門担当者の変化も必要です。例えば、従来の日本企業には人事部門を「敬して遠ざける」風潮が根強くありました。しかし、これからは人事部門と従業員がより密に連携して、相互作用で企業の価値向上を図らなくてはいけません。
これからの人事部門は今まで以上に現場に近い存在であるべきです。例えば、従業員が仕事やキャリアのことで悩みを抱えているとき、ふらっと人事部門の部屋に立ち寄れるような関係性を築くのが、これからの人事部門のあるべき姿だと思います。
ここまで、人的資本経営の考え方や日本企業における変化について述べてきました。次回は、人的資本経営におけるオフィスやワークプレイスの重要性についてお伝えしたいと思います。
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