人的資本経営における人材は「価値創造のための資本」。組織に「パラダイム変革」を起こすには 全2回|前編
2026年04月01日組織変革
「人的資本経営」の普及に伴い、「人」への投資を活発化させている日本企業の動向について、「人的資本経営」の第一人者であり、経産省のプロジェクト座長や内閣府の委員を歴任した一橋大学名誉教授の伊藤邦雄さんに、全2回にわたってお話を伺います。この後編では、オフィス*¹をはじめとした「場(Ba)」への投資はどのように位置付けられるべきなのか、人的資本経営におけるオフィスやワークプレイス*²の重要性についてお聞かせいただきました。
*1 オフィス:企業や組織が業務を行う物理的な拠点・事務所。
*2 ワークプレイス:企業や組織のオフィスにとどまらず、自宅、公共空間、仮想空間なども含む、業務を行うあらゆる環境の総称。
私は以前から、人的資本経営においてオフィスやワークプレイスが極めて重要であると考えていました。それは「今、なぜ人的資本経営が必要なのか」という根幹と深く関わります。
大局的には、「なぜ日本企業は長期停滞を余儀なくされたか」という点が重要なポイントです。その理由についてはさまざまな見方が存在しますが、私はこの原因として「有形資産の偏重、無形資産の軽視」を有力視しています。
民間企業による無形資産と有形資産への投資率の変化を、日本とアメリカで比較した興味深い内閣府の経済白書データがあります。かつて人材や知財といった無形資産よりも、土地や建物のような有形資産に投資をしていたのは、日本もアメリカも同じでした。しかし、アメリカでは1990年代から無形資産への投資率が上向きはじめ、2000年代初頭には有形資産への投資率を追い抜きました。対して、日本企業は有形資産への投資率のほうが高いまま現在に至っています。
1990年代以降、世界で躍進した企業を思い浮かべてみましょう。GAFAMをはじめITを基軸に覇権を握った企業は、無形資産を企業価値に転換してビジネスを展開しています。これらの企業がアメリカが発祥であることを踏まえても、無形資産への積極的な投資が今日の世界を代表する企業を形作ったと分かります。
そうした構造転換がアメリカで起きはじめた1990年代、日本企業はバブル崩壊の事後処理のまっただ中でした。有形資産から無形資産へ投資をシフトするチャンスを逸したことが、現在に至る日本企業の長期停滞を招く要因になったのです。
かつての失敗の余波は今なお残り続けているものの、無形資産の重要性が見直され、人材への投資が活発化しているのは喜ばしいことです。しかし、無形資産への投資とオフィスやワークプレイスの関係性について、首を傾げる方は多いかもしれません。「オフィスは有形資産ではないか」という指摘も聞こえてきそうです。
たしかに、自社ビルの建設やオフィスの整備は、表面上は有形資産への投資に当たります。しかし見方を変えると、結果的に人材の価値向上に資する無形資産への投資となるのです。
旧来型の日本企業のオフィスを想像してみてください。対向島型デスクレイアウト、画一的なデザイン、モノトーンな色調と、整然とはしていますが、味気ない印象も強いと思います。こうした環境で、従業員の創造性や自律性、エンゲージメントが向上するでしょうか。むしろ、役職の上下が一目瞭然のデスクレイアウトや、かしこまった空間は従業員の心理的安全性を損ね、創造性の源泉となる「対話」の機会を奪っているとすら言えます。
良質なオフィスデザインや配置、運用の工夫によって増幅される創造性やエンゲージメントは、紛れもない無形資産であり、その拡大は人的資本経営に大きく寄与します。つまり、これからのオフィスやワークプレイスづくりは「いかに自社の無形資産を増大させるか」に主眼を置くべきなのです。
こうした取り組みのお手本となるのは、シリコンバレーのビッグ・テック企業です。私は1980年代末にスタンフォード大学の研究員に就任して以降、シリコンバレーの変化を継続的に観察してきましたが、かなり以前から現地のスタートアップ企業はオフィスをはじめとするワークプレイスづくりに工夫を凝らしていました。
最近では、日本国内でも大手IT企業などを中心に、フロアごとにレイアウトや色調を変えたり、従業員同士が日常的に顔を合わせるような動線を設けたりと、オフィスづくりに工夫を凝らす企業が増えています。
こうした変化は大変喜ばしいことですが、一方で、まだ拭いきれていない旧弊も根強くあるように思われます。それは日本企業の「二元論」的な思考様式です。それがオフィスやワークプレイスづくりに少なからぬ影響を及ぼしています。
例えば、「公/私」の二元論です。あなたの職場には、仕事ではまじめなキャラクターしか見せないが、実はプライベートでは個性的だったり、ユニークな趣味を持っていたりする人はいないでしょうか。なぜ、こうした現象が起こるかといえば、日本社会では「公私混同してはいけない」という規範が強いからです。
しかし、優れたアイデアは、往々にして日常の何気ない瞬間に降ってくるものです。趣味や遊びで得た知識が、仕事に役立つこともあるでしょう。「公/私」を二元論的に捉えて、完全に切り離すことによる損失は案外多いのです。
この二元論的な思考様式から抜け出すことは、オフィスやワークプレイスづくりにおいて、外部との繋がりを確保するためにも重要です。イノベーションの意が「新結合」であることからも分かるとおり、新たな価値や知識を生み出すためには、積極的に多くの人々の知に触れ、社内外人材との交流や接触を図る必要があります。
しかし、旧来的な「公/私」の二元論的思考が妨げとなり、革新をめざしてオフィス整備したにもかかわらず、「閉じた施設」として運用されているケースが少なくありません。せっかくオフィスづくりに工夫を凝らしたのですから、外部人材も利用可能なスペースを設け、社内外の交流イベントを開催するなどして、さらに創造性や偶発性を誘導するような仕掛けを試みてほしいです。
また、二元論的な思考様式は「出社/リモートワーク」という対立にも現れています。昨今、「出社回帰」の風潮を受けて、リモートワーク中心の勤務体制を見直す企業も増えているようです。しかし、心理的安全性の確保やインクルーシブな職場づくりといった観点から、柔軟な働き方とそれに対応したワークプレイスの確保は欠かせません。
前編で紹介した、通称「伊藤版Well-beingスコア」による1万人調査でも、週3日ほどの出社頻度が最もWell-beingスコアが高いという結果が出ています。「リモートワークを取り入れないと時代に取り残される」「出社を強制しないと生産性が上がらない」といった、両極どちらかの考えに固執するのではなく、両者を組み合わせて最適なあり方を模索するような思考様式が定着することを期待しています。
とはいえ、オフィスやワークプレイスづくりには大規模な投資が必要です。巨額の予算を確保するには、どの程度のリターンが得られるのかという、具体的な数字が求められるでしょう。
無形資産の変化はどうしても定量化しにくい面があります。「インプット(投入資源)」「アウトプット(直接的な産出物)」「アウトカム(プロセスを通じて得られる成果・変化)」の関係に置き換えれば、無形資産はアウトカムに位置するからです。アウトカムは、インプットやアウトプットに比べて定義や定量化が難しく、複雑な説明を要します。人的資本経営を次のフェーズに進めるには、「無形資産をどのように可視化するか」がキーになるでしょう。
NTTファシリティーズは、建築物が従業員や顧客、地域社会に与える総合的な付加価値を12項目で整理した「NEBs(Non-Energy Benefits)」という独自の指標を整備したと聞きました。NEBsのスコアが高ければ高いほど、ビルやオフィスのもたらすアウトカムが大きいというわけです。
特に印象的なのは、項目のひとつに「健康増進」が定められている点です。ある調査によれば、日本で働く人のメンタル不調が生む経済的損失は、年間7.6兆円にものぼり、これはGDPの1.1%に当たります。そう考えると、従業員の健康増進は紛れもなく経済的メリットを伴う効果だと言えるでしょう。
また今後は、学術的なアプローチによる無形資産の可視化も必要だと思っています。2020年に「人材版伊藤レポート」、2022年に「人材版伊藤レポート2.0」をまとめましたが、当時はオフィスやワークプレイスがもたらす経済的な効果にまでは議論を深めることができず、私自身の残された課題となりました。働く人々のデータを保有しているのは企業ですから、産学の連携を強化し、経営学、心理学、脳科学などの多様な学術的知見から、無形資産の可視化が進展することを期待しています。
最後に、オフィスやワークプレイスづくりに取り組む企業の皆さんにも意識改革を促したいです。これまでも繰り返し述べているように、オフィスやワークプレイスは無形資産を育む土壌です。多くの場合、有形資産は時間が経つごとに価値が減耗していきますが、無形資産は時間が経つごとに価値を高めていく可能性を秘めています。そうした意識を持って、自社らしいオフィスやワークプレイスをつくってください。
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