近年私たちの「働く場」は大きく変化し、今後はVR(仮想現実)やMR(複合現実)活用への期待感も高まっています。こうした技術は私たちの働く環境をどう変えるのでしょうか。早稲田大学理工学術院 基幹理工学部の伴地芳啓さんにお話を伺いました。
「人」や「働きやすさ」と向き合う日々
私は現在早稲田大学で、データサイエンスや人間工学を活用した研究を行っています。大学で飛び級して修士課程に進学し、博士論文を2年で書き上げ、25歳で博士号を取得しましたが、決して生き急いでいるわけではありません。学生時代に人間工学やデータサイエンスと出会い、その勉強や研究に没頭していたら、いつの間にか今の場所にいたという感覚です。
約10年前、データサイエンスが一種のブームになり、「世界一セクシーな職業」と呼ばれたことがありました。少し気恥ずかしい響きではありましたが、世の中に溢れる膨大なデータを使って、さまざまな課題を解き明かしていくプロセスには大きな魅力を感じたものです。
人間工学では、人間の「ブレ」に向き合います。人間は実に面白い存在で、同じ状況に置かれても、体調や気分、環境などによって行動や感じ方が変わります。その「ブレ」を、単なるノイズとして切り捨てるのではなく、統計やAIを使って「なぜ今、この人はこう動いたのか」という法則性を見つけ出すのが人間工学の醍醐味です。
加えて、私は学生時代から日本オフィス学会にも所属しています。当初は、椅子に座ったときの疲労度や姿勢の変化を人間工学的に測定するなど、什器の評価から研究をスタートさせました。
しかし研究を続けるうちに、什器単体の性能がどれほど良くても、それを置く場所や周囲の照明、音、そこで行われる作業内容との相性を無視しては、真の「働きやすさ」は語れないのではないか、という疑問が湧いてきました。そのため現在はワークプレイス全体の設計に関心を広げており、先日はAIを使って作業環境と作業内容に関する膨大なデータをマッチングさせた研究について発表しました。
一般的なオフィスにおける「作業内容」と「作業スペース」をAIによって洗い出し、その適合性を評価させた表。出典: 「作業内容と作業環境の人間工学的検討」(オフィス人間工学研究部会)
VR(仮想現実)・MR(複合現実)活用の「現在地」
VR(仮想現実)やMR(複合現実)は2020年前後から注目されるようになりましたが、現在当時の熱狂は落ち着きを見せています。
VR・MRの普及を阻んでいる最大の要因は、「VRやMRでなければできない体験」が仕事や日常生活で確立されていないことだと考えています。多くの事務作業はパソコンで事足り、わざわざ重いヘッドセットを被ってVR空間で働くメリットがさほどないのが現実です。
一方で、特定の領域では具体的な活用が進んでいます。その筆頭が、建設業や製造業における研修やシミュレーションでの利用です。例えば、大手ゼネコンでは、BIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)データをVRに変換し、着工前の建物をVRで確認する取り組みが進んでいます。
また、危険な高所作業に関する研修をVRで行うなど、現実で体験させるわけにはいかない物事をVRで安全かつリアルに体験させる取り組みもあり、教育コストと安全性の両面で価値を生んでいます。
加えてMRにおいては、Apple Vision Proなどデバイスの進化も目覚ましく、特に空間のスキャン能力が大幅に向上しました。昔は「MR専用に作り込まれたデータ」しか見ることができませんでしたが、今はヘッドセットを被るだけで、周囲の現実の壁や机をカメラが瞬時に解析し、その物理的な場所にデジタル情報をぴたりと重ね合わせることができます。この「現実の空間を3Dとして認識する力」が、今後多くの場で活用されるキーになるのではないでしょうか。
仮想と現実、無意識の境界線
MRの研究を進める中で面白い発見がありました。空間に「仮想の物体」と「現実の物体」が混在しているとき、その物体の存在感によって人間の行動が変わるのです。
実験では、MR上で大きさや透明度、衝突判定(手が当たったとシステムが認識する設定)を変えた仮想物体の奥にあるリアルな箱を掴む動作を、机上で手を伸ばして取得する場合と、室内を歩行して取得する場合の2つの状況で比較しました。ここでいう衝突判定とは、仮想物体に手などが触れた際に、それを物理的な接触として認識させる設定のことをさします。
すると、机上で手を伸ばす場合には仮想物体をすり抜けてリアルな箱を掴もうとしましたが、歩行して取得する場合にはルートを迂回して避ける傾向が見られたのです。
仮想物体の条件によって私たちが感じる「存在感」は確かに変化しています。身体ごと移動する歩行時には、「そこに実体がある」感覚や「ぶつかりたくない」という認識が無意識に働き、それが行動の変容に繋がっている可能性があります。
MR上の仮想物体に対する「存在感」の評価実験。存在感は、被験者がその物体をどれだけ実在するように感じたかを7段階で評価したもので、サイズが大きく不透明であり、さらに接触(インタラクション)がある条件ほど高くなる傾向が見られた。出典: 「MR環境における仮想物体の視触覚表現とユーザ体験(2)」(大平悠介、出口和希、伴地芳啓、河合隆史(早稲田大学))
つまり、人間には「これくらいのサイズや質感ならすり抜けていい」「これくらいの存在感があれば障害物として認識する」という、無意識の境界線があるということです。
この境界線を解明できたら、将来メガネ型の軽量デバイスが普及し、私たちの視界に常にディスプレイやアバターが浮かんでいる世界が来たとき、それらが私たちの歩行や動作を邪魔しないよう設計する一助になるでしょう。
VRが発展した中での「リアルオフィスの価値」
MR・VR研究がさらに進むと、働く場や働き方はどう変わっていくのでしょうか。ビデオ会議でよくある不満として、「画面越しだとアイコンタクトが取りにくい」「相手が誰を見て話しているのか、その場の雰囲気がどう動いているのかが分かりにくい」などが挙げられます。
しかし今後VR技術が発展し、現実と同じ空間を作ることができれば、自宅にいながらにして“視覚的・空間的には現実に近い体験”ができるようになります。これにより、リモートワークの孤独感やコミュニケーションロスは大きく解消される可能性があります。
とはいえ、こうした技術が進んだとしても、リアルオフィスはなくならないと思います。その価値がこれまで以上に先鋭化され、「そこに居ることでしか得られない価値」が浮き彫りになるはずです。
そのひとつが、職場や取引先の人と実際に会える価値です。人があえて直接会うのは「その相手が信頼できる人か確認したい」といった理由に加え、雑談や偶発的な会話など、目的を定めないコミュニケーションを生みやすいという側面もあります。これはリアルならではの醍醐味です。
一方で、カフェやサテライトオフィスなどのサードプレイス利用、ワーケーションなどの「場所を移動して“一人”で働くことの価値」は、徐々に減少していくのではないかと思われます。VRデバイスがあれば、自宅の視界を「お気に入りのカフェ」や「森の中のオフィス」などに変換できます。リフレッシュしながら、使いやすい椅子やデスクで仕事ができれば、業務効率も上がるでしょう。
よって、サードプレイスやワーケーションの現場では、VRでは再現できない特別なサービス・設備、そして人とのつながりといった「体験」の価値が、より重要になっていくかもしれません。
VR・MRとAIがもたらす新しい自由
私が描いているのは、物理的な制約や距離、身体的なハンディキャップから、すべての働く人が解放される世界です。その実現には、VRやMRそしてAIの発展が不可欠だと思います。
VRの中では実体を持つ必要がないため、AIがアバターとなって店員やコンシェルジュとして働くことが容易になります。AIなら24時間365日、一定の品質でサービスを提供できますし、人間が心理的負担を感じるクレーム対応なども代わってくれるでしょう。
目の前の相手が人間なのかAIなのか分からないといった現象や、AI利用に関する倫理的な問題の整理は避けて通れませんが、適切に活用すれば、私たちの働き方をより豊かに、より楽にしてくれるはずです。
私たちは、新しくインパクトの強い技術が登場すると、つい「乗り遅れてはいけない」と飛びついてしまいがちです。しかし、無理に業務に導入して「使いにくかった」「目が疲れるだけだった」という失敗体験が一度植え付けられると、その後の普及に大きなブレーキがかかってしまいます。
よって、新しい技術を企業で導入するときに大切なのは、「技術ありき」ではなく「ニーズありき」で考えることです。例えば、目的が不明確なまま全社でVRを導入するのではなく、業務中のリフレッシュのためにVRのヘッドセットを購入し、社員が適宜ヘッドセットを被って脳をリセットするなど、目的に合わせて小さく導入していくとよいのではないでしょうか。
私は引き続き現在の研究を進め、描いた将来に少しでも早く近づきたいと思います。
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