近年オンラインでの業務環境が整い、時間や場所を問わず働くことが可能になりました。一方で、情報量や業務の切り替えが増え、慢性的な疲労を感じるワーカーが少なくありません。快適かつ健康的で生産性の高い働き方を保つには、どのような取り組みが必要でしょうか。お茶の水女子大学で教鞭を執る、脳科学者の毛内拡さんに伺いました。
脳科学は現代人の“必修科目”
私はお茶の水女子大学のヒューマンライフサイエンス研究所の助教として、脳科学の研究や教育活動に取り組んでいます。
脳科学に興味を持ったきっかけは、高校時代にボランティア活動の一環で特別支援学校の運動会に参加したことです。同年齢の重度知的障がいを持つ方々と一日を共に過ごしているうち、一人ひとりの脳の働きや認知の違いがどのように生まれるのか、そのメカニズムに深く関心を持つようになりました。図書館で医学、心理学、哲学などの本を読み漁っても納得のいく答えが得られませんでしたが、その後脳科学に出会い「自分が知りたい答えは脳の中にある」と気づいたのが現在の研究に至る経緯です。
普段は脳細胞や脳内物質といったミクロな対象を扱っています。特に、脳の神経細胞(ニューロン)が安定して働くために脳内環境を整える「グリア細胞*¹」に着目し、脳内環境と脳機能の関係を研究しています。
脳は人間の臓器の一つです。心臓や肝臓などと同じように、睡眠や身体の状態、ストレス、周囲の環境の影響を受けます。だからこそ私は「脳科学は現代人の必修科目である」として、脳の特徴を理解し、自分の状態と情報環境の関係を考え、脳が働きやすい条件を整える力、つまり「ブレイン・リテラシー」の普及に努めています。
*1 グリア細胞:脳や脊髄などの神経系を構成する細胞群。神経細胞の生存や発達、活動を支える脳内環境の維持や代謝的支援などを担う。主なものに、アストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリアなどがある。
注意の切り替えが生む小さな負荷
現在のビジネス環境は、情報過多、スピード重視、そして複数業務が常時並行する「マルチタスク化」が顕著です。オンライン会議に参加しながら、チャットツールの通知を確認、返信を書き、次の業務について考えるといった行動が日常的になりました。
こうした環境下で脳疲労を感じる方は多いかもしれませんが、それは当然のことです。なぜなら人間は、複数の複雑な課題を同時処理しているとは限りません。多くの場合、“注意”を一つの課題から別の課題へ切り替えながら対応しています。切り替えのたびに、それぞれの課題の目的や規則を読み込み直す必要があるため、反応が遅れたり、間違いが増えたりすることがあります。だからこそ、マルチタスクは妙に疲れると感じるのです。
なお、「脳疲労」は医学的な診断名ではありません。本稿では、集中しにくい、考えがまとまりにくいなど、脳の働きが落ちたように感じられる状態を、わかりやすく「脳疲労」と呼びます。
では、対面とオンラインのコミュニケーションのどちらが、脳へ負担をかけやすいのでしょうか。対面とオンラインのどちらが負担になりやすいかは、一概には決められません。オンライン会議では、視線のずれ、自分の映像が常に見えること、通信の遅延、技術的な操作、長時間画面を見続けることなどが疲労につながる場合があります。一方で、移動を必要とせず、対面での緊張を減らせる利点もあります。会議の長さや人数、発言のしやすさ、カメラや自画像の表示など、使い方によって負担は変わります。
脳には、外部から入る情報をもとに次の展開を予測する働きがあります。対面では、言葉だけでなく、視線や呼吸、表情、姿勢など、相手の意図を推測する手がかりを多く得られます。一方、オンラインでは、こうした手がかりが限られ、その不足を推測で補う場面が増えることがあります。ただし、それがどの程度負担になるかは、会議の設計や個人差によって異なります。
「集中・判断・コミュニケーション」に対する脳疲労を軽減する方法
ビジネスに必要不可欠な「集中する」「判断する」「コミュニケーションをとる」という行為は、特に脳への負荷が高いとされています。これらの行動に対する脳疲労を軽減し、快適かつ健康的に働くためにはどうしたらよいのか、脳科学の観点から改善策を紹介します。
まず「集中する」ことに関しては、スマートフォン(以下、スマホ)やPCの「通知オフ」が有効です。通知は「新しい情報が届いたこと」を知らせるため、見るかどうかを判断するだけでも目の前の課題から注意が離れます。通知を開かなかった場合にも、内容が気になり、注意の一部が残ることがあります。そのため、通知をオンにしていると注意が中断されやすく、目の前のことだけに集中するのが難しくなります。
よって、スマホなどの通知を原則的にオフにして、必要な通知だけ届くような設定にすれば、脳への認知負荷は下がり、より集中しやすくなります。私自身、日頃から積極的に「通知オフ」を実践し、リアルタイムで得る情報を取捨選択していますが、仕事に大きな支障をきたしたことはありません。それぞれの立場や状況に応じて「通知オフ」の活用の仕方を見つけてみてください。
また、記憶や思考を物理的な媒体に保存し委ねる「外部化」も一つの方法です。例えば、脳裏に浮かんだ事柄や考え、行動などを紙に書き出すことで、その考えを頭の中だけで保持し続ける負担が減り、目の前のタスクに集中しやすくなります。私自身、やるべきことが多くて焦ったときは、一度タスクを書き出して整理しています。すると、すぐに必要な行動は案外少ないことが分かって、安心感につながることが多いです。
それから「25分の集中作業」と「5分の休憩」をセットにして繰り返す「ポモドーロ・テクニック」も一つの方法です。一定時間ごとに休憩を入れる方法は、集中と休憩の区切りをつくる手がかりになります。ポモドーロ・テクニックが合う人もいますが、「25分作業、5分休憩」が誰にとっても最適と証明されているわけではありません。仕事内容や自分の集中の波に応じて調整するのがよいでしょう。
次に「判断する」ことに関しては、重要な判断は疲労が強い時間帯を避け、自分が比較的よく覚醒し、落ち着いて考えられる時間に行うのがよいでしょう。朝が適している人もいますが、生活リズムや仕事の時間帯によって個人差があります。
なお「寝ても疲れが取れない」場合、その原因は睡眠時間の不足だけとは限りません。睡眠の質、生活リズム、ストレス、身体の状態など、さまざまな要因が関係します。睡眠不足が続くと、注意力や判断力が徐々に低下することは確かです。まずは自分に必要な睡眠時間を確保し、それでも疲労が続く場合には、睡眠や健康状態を見直す必要があります。
そして「コミュニケーションをとる」ことに関しては、「自分が思っているほど、相手と前提や文脈は共有されていない」という前提に立つことが、脳の余計な摩擦を防ぎます。これを裏付けているのが、1990年にスタンフォード大学の大学院生であるエリザベス・ニュートンが行った「タッパー(tapper)とリスナー(listener)」という実験です。片方の人が頭の中で誰もが知る曲を思い浮かべながら机をコツコツ叩き、もう片方の人が曲名を当てるゲームをしたところ、叩く側は「半分(50%)は伝わるだろう」と予想していたのに、実際に聞き手が当てられた確率はわずか2.5%でした。
この実験は、自分が知っていることを、相手も同じように理解できると過大評価しやすいことを示す一例です。よって、日頃から丁寧かつ解像度の高い言葉で説明すること、対面のコミュニケーションでは表情や空気感など言語以外の情報も伝えることを意識すると、認識のずれを減らすコミュニケーションにつながります。
脳の回復には「足し算」より「引き算」が効果的
現在、私たちは非常に多くの情報に囲まれて暮らしています。一時的な通知オフにより情報を遮断することは可能ですが、多くの人と協働するには、情報の獲得やコミュニケーションが不可欠です。また、これまでに紹介した個人でとれる対策だけで脳の疲れに対処するには限界があります。よって、企業が脳科学の観点から「働きやすい職場」を整備することも必要です。
近年は、業務内容や気分に合わせて働く場所と時間を従業員が自由に選択する「ABW(Activity Based Working)」という働き方が普及しつつあると感じています。静かな場所で集中する、他者と相談する、気分を切り替えるといった選択肢を持てることは、働きやすさを支える可能性があります。ただし、ABWを導入するだけで脳疲労が軽減するわけではなく、集中用の空間や、移動しやすい運用を整えることが重要です。
ABWを実施していない企業でも、作業への集中を目的にした個室やブースを設けることで、従業員のマルチタスクによる疲労を軽減できるでしょう。また、業務中にパワーナップ(1回20分程度の昼寝)を取ってもよいという環境も、午後の眠気や覚醒度を整える手がかりになります。
加えて、働きやすさを支えるうえでは、自分で仕事の進め方を選べるという裁量感や自己決定感も重要です。あるグローバルIT企業では、業務時間内の20%の時間を自由な学習や実践に充てられる「20%ルール」を実践しているそうですが、これは従業員の裁量感や、自分で仕事を進めているという実感を支える可能性があります。
このほか、働く人が気持ちを切り替える手がかりとして、仕事以外の未知の分野に触れる「新奇体験」、自然や旅などを通じて心が動く「情動喚起」、他者とつながり、互いに支え合う「相互扶助」を取り入れることも考えられます。
例えば、従業員が「新奇体験」や「相互扶助」を実感できる機会を設けたり、オフィスの中にカフェスペースやフリースペースのような「余白」をつくり、屋内緑化で自然を感じる環境を作って「情動喚起」につなげたりするのもよいでしょう。
企業でできる取り組みについて紹介しましたが、最終的には“足し算”ではなく“引き算”で考えることも大切です。何かを改善しようと思うと、人はどうしても何か新しい施策を増やそうとしますが、新しい施策を増やす前に、不要な通知や会議、過剰な情報、休息を妨げる慣習を減らせないかを考えることが重要です。ぜひ引き算的な観点を持ちながら、自社の働き方や働く場を見直してみてください。
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