建物内のさまざまな設備を自動で管理し、利用者の快適性向上と省エネルギー化などに寄与する「スマートビル」。現在、情報処理推進機構デジタルアーキテクチャ・デザインセンターに所属している粕谷貴司さんは、このスマートビルに関する研究や実践に長年取り組んできました。今後センシング技術やそこから取得できるデータによるデジタルツイン*1などがさらに活用された場合、従前のワークプレイスは、スマートビルの技術を活用した「スマートワークプレイス」に進化していくのかについて粕谷さんにうかがいました。
*1 デジタルツイン:デジタル空間に物理空間のコピーを再現する技術。物理空間から情報を取得したり、デジタル空間での計算結果を物理空間にフィードバックしたりすることも可能。
スマートビルから取得したデータの利活用が求められる社会的背景
スマートビルやセンシング技術の発達に関して、これまでは「経済性と快適性の向上」という文脈で語られる傾向がありました。
そんなセンシング技術の活用に関して大きな影響を与えたのが、新型コロナウイルスの感染拡大です。これにより、ビルの入退室管理システムや監視カメラ設備(VSaaS*2)と連携させ、ワーカーの動線管理や感染経路を特定するといった新たなニーズも生まれています。
例えばワークプレイスでのセンシング技術の活用を進めている「point 0 marunouchi*3」では、天井や机、各ブースのドア部分などに多様なセンシングデバイスを設置。ワーカーの在席管理などを実施しています。またIoTセンサから取得したデータを元に空気を常に浄化する「クリーンブース」実験など*4も行われています。このように近年では脱炭素やSDGsも意識されるようになり、企業・ワーカーともにエネルギーの有効活用への意識が高まっていることは明らかです。
さらに最近のABW*5の普及を受け、「気分を変えるためにオフィスに行く」など、従来のセンターオフィスとは違ったオフィスの使い方をするワーカーも登場しています。スマートビルによる快適性の最適化は、こうしたワーカーのニーズを考慮して調整される必要があり、ワーカーの生産性向上に寄与することが求められているように感じます。例えばビル内の人流を適切に把握できれば、「人が少ないときはビル共用部のホワイエで仕事をする」といった、スマートビルならではの新しい使い方も可能です。
今後は建物全体を指す「スマートビル」というスケールから、より人に近い空間を指す「スマートワークプレイス」への注目が高まっていくと考えています。そして建物維持に関する不快・不便が解消され、付随する業務は効率化していく。こうして創出された時間を使って新たな価値が創造されていくでしょう。
「快適で効率的に働けるワークプレイスであるのは当然のこと」として、スマートワークプレイスを選んで入居する企業やワーカーが増加すると考えられます。こうした動きは、海外では既にトレンドになりつつあります。
*2 VSaaS(Video Surveillance as a Service):クラウドで提供する映像監視サービスのこと。
*3 point 0 marunouchi:株式会社point0が所有する施設。入居者によるさまざまな実証実験が可能な、新しいタイプのコワーキングスペース。
*4 クリーンブースの活用:「point0 annual report 2020-2021」を元に編集部が追記。
*5 ABW(Activity Based Working):オフィス内に、仕事のさまざまな活動(アクティビティ)に適したワークスペースを用意し、個人がデスクを固定せず、作業内容に応じて働く場所を変えられる勤務形態。
リアルとバーチャルが等価となる時代に必要なスマートワークプレイスづくりとは
スマートワークプレイス化を語る際に触れておくべきなのが仮想空間の活用です。近年の感染拡大を背景に仮想空間をワークプレイスとして利用する取り組みが増加しています。
例えば株式会社マーズフラッグ*6では、仮想オフィスでの勤務に全面的に移行。オフィスを最小化して賃料や光熱費などのコストを削減し、主に仮想空間でコミュニケーションがとれるように整備。リアルとバーチャルのどちらからでもコミュニケーションできるよう多様性を確保していると聞いています。
1990年後半から2000年代に生まれた日本のZ世代では、リアルで会社に勤務しながら、同時に仮想空間にもログインし、仮想空間でコミュニケーションを楽しんだりゲームをして息抜きしたりする方が出てきているそうです。興味深いのは、その方が心理的安全性を確保されていると感じていることです。これまで仮想空間は「没入する場所」でしたが、現在は「同時並行でログインし続ける場所」に移行しつつあります。
私もさっそく仮想空間にログインしながら仕事をしてみたのですが、私にはあまりフィットしませんでした。やはりワークスタイルには個人差が大きいと体感しています。
私が師事していた慶應義塾大学の中西泰人教授は、「合理的な情報提供を行うだけでは、意思決定と行動変容には必ずしも繋がらない。それは限定合理性しか持ち得ない人間の意思決定や行動が、個人のパーソナリティやその場の状況、機嫌/感情/ムードといった内面の心的状態にも影響されてしまうためであるが、それを逆手に取れば、新たな行動を引き出す契機を作り出せるだろう。」と述べています*7。
それを考慮すると、そのような心的な状態の変化や新たなニーズに寄り添えることや、ワーカーの繊細な変化をセンシング技術によって感じ取り、柔軟に変化できることは、スマートワークプレイスの価値のひとつといえるかもしれません。
今後リアルとバーチャルを等価と考えるようなメンタルモデル*8が主流になってきたとき、こうした新しいモデルに対応できるようなファシリティ戦略や制度作りが重要になるでしょう。
*6 株式会社マーズフラッグ:サーチテクノロジーを基本としたWebサービスを、国内外の企業や官公庁に提供する企業。日本経済新聞「上司も部下も「アバター出社」仮想職場で一体感」を参照し、編集部が追記。
*7 引用元:サービソロジー「スマートシティとポスト人間中心デザイン」
*8 メンタルモデル:人間が無自覚のうちに持っている、思い込みや価値観。認知心理学分野の言葉で、人が何かの思考に至る前提のこと。
「デジタルツイン」が企業やワーカー、ワークプレイスに与える影響
さらにリアルとバーチャルの行き来が当たり前となった近い将来、ビルだけでなく、ヒトやロボットなどのフィジカル(物理)空間の情報がデジタル(仮想)空間に転写されることで生まれるデジタルツインを介してコミュニケーションや物事の調整を行う世界が実現すると考えられます。
これらのデジタルツインには、人間に代わってシステムとの連携を行う執事型のAIや、物理空間には存在しないものの、さまざまなサービスをデジタル空間から人や空間に対して提供するデジタルエージェントなども含まれます。これは、政府が提唱する「Society5.0」が目指す世界といえるかもしれません。それらを実現する基盤となるのが「コモングラウンド*9」と呼ばれる概念です。
こうしたデジタルツインやコモングラウンドに関わる実証実験を行っているのが、私の出向元である竹中工務店など複数の運営委員で運営している、大阪・天満の「コモングラウンド・リビングラボ」。異業種の企業が集まり、協創を生み出すような仕掛けを用意しています。
現在は2025年の大阪・関西万博に向けて、人とロボットが共に暮らす世界の実現をめざすさまざまな実証実験を実施しているところです。例えば、コモングラウンド・リビングラボ内で検知した人のリアルタイム位置情報をトラッキングすることで、フィジカル空間とデジタル空間のアバターの動きを同期させたり、デジタル空間で動作させたロボットの動きをフィジカル空間に反映させたりしています。
さらに近い将来、ヒトのデジタルツインである「パーソナル・デジタルツイン*10」の実用化も期待されており、すでに予防医療分野などでの活用を見込んで、多額の投資がなされています。この技術がコモングラウンドを介してスマートビルやスマートワークプレイスで活用されると、例えば医療施設で適切な治療を受けられたり、経過観察ができたりするようになるといえます。
また、こうした技術を実現するためには、建物内の個人の居場所を特定し、そのデータに信頼性(トラスト)を与えることが必要です。それによって、犯罪や事故に巻き込まれた際のエビデンスとしても活用されたりすると考えられます。
今回ご紹介したスマートビルやスマートワークプレイス、デジタルツイン、コモングラウンドなどの動向を把握した上で、現在持たれているワークプレイスや、実施しているワークスタイル・制度を見直してみてはどうでしょうか。
私も引き続き、日本の文化的な側面を十分に考慮しながら、センシング技術や取得データの利活用が進むよう研究していきます。そして快適なスマートワークプレイスが当たり前となり、デジタルツインが十分に活用されるような未来を描きたいと思います。
*9 コモングラウンド:リアル空間に存在するものをデジタル情報として扱い、リアルとデジタル空間をリアルタイムでシームレスに繋ぐプラットフォーム。
*10 パーソナル・デジタルツイン:人の個性的な運動や行動の情報表現としてのコンピュータモデル。身体的・生理学的特徴だけでなく、個性や感性、思考、技能など人の内面までを再現できると期待されている。NTT R&Dでも研究に取り組んでいる。
関連する記事
最新のコラムや導入事例をメールマガジンで配信いたします。