人的資本を高めるうえで、人材の育成や活躍支援は欠かせない要素です。従業員の可能性を引き出し、知識や経験を組織の力へと転換するには、どのような取り組みが求められるのでしょうか。今回は、そうした知識創造を促すための環境づくり=「ナレッジ・イネーブリング」に注目し、組織論や知識創造理論を専門に、国内外の企業変革に携わってきた国際経営開発研究所(IMD)教授・一條和生さんにお話を伺いました。
人的資本経営の推進によって「失われた30年」を取り戻す
私は2022年より、スイス・ローザンヌの経営大学院である国際経営開発研究所(International Institute for Management Development、略称IMD)にて研究・教育活動に従事しているほか、一橋大学名誉教授、日本ナレッジ・マネジメント学会会長、複数の日本企業の社外取締役などを務めています。
専門は組織論、リーダーシップ、知識創造理論などで、国内外において企業の変革活動へも数多く携わってきました。「失われた30年」とも称される長期的な経済停滞に見舞われてきた日本企業に、次世代を担う経営人材の育成を通じて貢献するのが、私のミッションだと考えています。
昨今、多くの日本企業が人的資本経営に力を注いでいます。それは先ほど述べた「失われた30年」の反省を踏まえると、非常に好ましい傾向だと感じています。
バブル経済の崩壊以降、日本企業は生き残りのために「人への投資」を抑制し、コスト削減に努めました。しかし、それが今日における日本企業の人材空洞化を招き、社会的には就職氷河期世代を生んで人口減少を加速させるなど、長期停滞の大きな要因となりました。
今こそ、人への投資を活発化させ人材育成を強化しなければ、日本企業、ひいては日本社会全体の未来はありません。日本企業には、ぜひ健全な危機感を持って人的資本経営に取り組んでほしいと思っています。
また、人への投資に関しては、世界と大きな差が開いていることも同時に意識する必要があります。日本企業の教育訓練への投資額は、先進諸国と比べてはるかに低水準です。それは世界の経営人材たちと接する中でも実感しています。
IMDには欧州だけでなく、中東、アフリカ、中南米などの経営人材が集まり、最先端の経営知識を貪欲に学んでいます。学びと実践の好循環こそ経営の本質であると強く認識しており、所属企業も支援を惜しみません。人的資本経営を推進するのであれば、こうした世界の情勢を踏まえた上で、より一層学びへの注力を期待したいところです。
「人」の活用は日本企業の得意分野だった
日本企業はこれまでも「人」という資源を十分に活用できていなかったのでしょうか。全くそんなことはありません。むしろ優れた日本企業の多くは、「人」の創造性を発揮させる経営手法で、世界に冠たる製品やサービスを創り上げてきました。
代表的なのが自動車の製造です。工場の現場従業員が生産ラインを自律的に改善し、効率化する生産方式は、日本の自動車産業が確立しました。また、コンビニエンスストアにおいて、パート・アルバイトの従業員が商品の需要予測をして発注業務をする仕組みを定着させたのも日本企業です。今となっては当然のシステムですが、これらは現場の従業員が自律的に創造性を発揮して経営を改善しているという点で、「人」の可能性を最大限に活かした経営手法と言えます。
高度経済成長期からバブル期に生まれ発展した日本企業には、こうした「知識創造経営」を実践する企業が少なくありません。人的資本経営が注目される今だからこそ、かつての日本企業の姿勢が再評価されるべきだと私は思っています。
日本企業における知識創造経営の特徴は、現場の一人ひとりが知識創造の担い手であることです。現場の従業員たちが経験に基づいた直感により「暗黙知」を「形式知化」することで、組織として活用可能な知識資本を蓄積しています。
先ほど挙げたコンビニエンスストアの例で言えば、従業員が直近の商品の売れ行きや翌日の天気などを踏まえて商品の発注量を決定するとき、これまでの経験からさまざまな条件を自律的に考慮して、暗黙知を形式知化しています。
こうした現場主導の知識創造は、すでに到来しつつある“AI時代”において重要性が増すでしょう。なぜならば、AIは言語化された情報、つまり形式知しか扱えないからです。あらゆる知識は暗黙知から始まるため、暗黙知を形式知化するプロセスは必ず人間が担わなくてはいけません。昨今、世界最先端のAI企業が日本の製造業と連携する事例が現れているのは、暗黙知の形式知化に強みを持つ日本企業の現場が高く評価されているからだと考えています。
ナレッジ・イネーブリングにおけるミドルマネジメントの役割
しかし、個々の知識創造に依存しているだけでは、知識創造経営は実現には至りません。そのためには、従業員が暗黙知を形式知化しやすい環境を整備する必要があります。従業員に知識創造を促すこの取り組みを「ナレッジ・イネーブリング」と呼びます。
ナレッジ・イネーブリングには、多種多様なアプローチが存在しますが、その中でもポイントとなるのが「場(Ba)*¹づくり」です。知識創造を促すには、従業員たちが暗黙知をうまく形式知できないときに生まれる「モヤモヤ」や「つまずき」を寛容に受け止めて聞き入れる、柔軟でフラットな場が欠かせません。
では、そうした場(Ba)を築くために何をすべきか。まずはミドルマネジメントの活性化が重要です。日本企業では従来、組織の文化や雰囲気を醸成する際には、部長や課長などのミドルマネージャーが大きな役割を担ってきました。日本の企業は欧米ほどトップと現場の距離が離れておらず、しばしば「ボトムアップ型」と評されますが、実態としてはトップと現場の間をミドルマネージャーが取り持つ「ミドルアップダウン型」であるというのが私の考えです。
実際に日本の大企業では、部長や課長が経営のトップや現場と直接相対するケースが少なくありません。こうした構造の中で、彼らはトップと現場をつなぐ橋渡し役として、組織や職場の雰囲気をかたちづくる重要な役割を果たしているのです。
ナレッジ・イネーブリングを推進する際も同様で、まずはミドルマネージャーが主導して、現場の従業員たちが些細な疑問や気付きを口にしやすい環境や雰囲気を醸成していきます。
ただし、現在のミドルマネージャーの多くは、日本企業が人への投資を抑制していた平成中期ごろにキャリアをスタートした就職氷河期世代に当たるため、人材層が薄く人手不足の傾向が強いのです。
その上、昨今の働き方改革によるワークライフバランスの浸透により、残業を避ける部下たちの皺寄せが来ている例も少なくありません。ミドルマネージャーに負担が偏る中で、ナレッジ・イネーブリングやそれに伴う場(Ba)づくりの責任まで負わせるのは現実的とは言えません。
だからこそ、私はAIが重要だと考えています。AIの活用を通じて業務を効率化し、ミドルマネージャーの負担を軽減することで、本来取り組むべき「場(Ba)づくり」に充てるリソースを捻出できるはずです。
*1 場(Ba):知識が創造・共有・活用される場所や状況のことで、物理的な空間に限らず、人々の関係性によって成り立つ概念。会議やプロジェクトチーム、社内wikiやSNSなども含まれ、暗黙知(言語化が難しい知識)と形式知(誰にでも理解できる形式の知識)が相互作用する。
直観を刺激し、知識創造を促すオフィスとは
ナレッジ・イネーブリングを可能にする「場(Ba)づくり」においては、ワークプレイスが果たす役割も大きいです。暗黙知の形式知化は、従業員同士のコラボレーションによって大きく進むため、人と人が出会いやすく協働しやすいワークプレイスはナレッジ・イネーブリングを後押しします。
例えば、スイスに本拠を置く世界最大級の飲料会社のオフィスはその好例でした。オフィスの中央が吹抜けになっていて、すべての階層が空間的に繋がり、あらゆる従業員が出会いやすい設計になっていました。こうしたオフィスでは、従業員同士の協働が促され、暗黙知が形式知化されやすいのです。
また、スイスの連邦工科大学ローザンヌ校の学習センターも、その一つだと思います。もともと同大学は学際連携を進めており、各学部間の人材や知の交流をめざしていました。そこで建設したのが、館内が壁で仕切られていない平屋の学習センターです。館内を歩くと図書館、学習スペース、会議室、カフェなどを横切るように設計されており、自然と出会いや協働が促されます。
ワークプレイスは今や、単なる施設や資産ではなく、「人」の可能性を引き出し、創造性を発揮させるための重要なインフラと言えます。
コロナ禍以降、世界ではオンラインによる就業が広く普及しました。もちろん、こうした効率的で柔軟なワークスタイルは今後も維持されるべきですが、その一方で、従業員の直観を刺激し知識創造に導くオフラインの場の価値も高まっています。先ほども述べた通り、AIが台頭する世界においては、従来以上に、知識創造が企業の競争力を強化する要素となるからです。
人的資本経営に取り組む企業には今一度、オンライン・オフラインを総合した「自社のオフィスのあり方」の見直しをお勧めします。
最後に、読者の皆さんには「全員経営」の重要性をお伝えしたいです。日本企業の強みは、トップと現場が組織の成長に向けて手を取り合えることです。そうした環境が現場での知識創造を促し、企業成長の原動力となってきました。よって全員経営は知識創造経営を推進する上での重要な条件と言えます。
ある日系衛生用品メーカーは、重視する価値観として「共振」を掲げています。トップと現場が同じ目標や価値観のもと共振する経営を理想として掲げているのです。これは全員経営の一つの優れたあり方と言えるでしょう。トップと現場がいかに手を取り合えるか。これこそが変化の激しい現在の社会において、企業が注目すべき重要な視点だと考えています。
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