昨今、人的資本経営の機運の高まりから、働く人のエンゲージメントやメンタルヘルスに注目が集まっています。人が生き生きと、心身ともに健康に働けるワークプレイスとはどのようなものでしょうか。産業保健心理学を専門として、慶應義塾大学政策・メディア研究科特任助教を務めながら、メンタルヘルス関連サービスの開発などを手がける宮中大介さんにお話を伺いました。
多義的な概念である「エンゲージメント」
私は現在、慶應義塾大学でワークエンゲージメントや働く人のメンタルヘルスの研究に従事するとともに、株式会社ベターオプションズの代表取締役として組織課題の解決に資するコンサルティングや心理学・ビッグデータ分析を応用したサービス開発支援を実施しています。
私は大学で心理学や統計学を学んだ後に、大学院に進学して集団の健康にアプローチするため公衆衛生学を専攻しました。大学院では働く人の健康づくりに関心を持ち、その中でも特に働く人のメンタルヘルスやウェルビーイングを研究する「産業保健心理学」という領域に関心を持ちました。大学院修了後に民間企業での勤務を経て学術知見のビジネスへの実装を通じて日本の競争力の向上に貢献したいと考え起業し、現在は非常勤で大学教員を兼務して研究教育にも関わっています。
昨今、人的資本経営の普及に伴いエンゲージメントの重要性が盛んに訴えられていますが、実は「エンゲージメント」の定義が明確になっていないまま普及しています。「エンゲージメント」には、主に「個人と仕事の関係」を対象とするものと、「個人と組織の関係」を対象とするものの二つの概念があります。
前者は、個人が仕事に対して、「活力」と「熱意」と「没頭感」を持って取り組んでいる状態を表す、学術分野では「ワークエンゲージメント」と呼ばれる概念です。産業保健心理学では2000年頃まで、うつやバーンアウト(燃え尽き症候群)などの働く人の“ネガティブな心理”にフォーカスしていましたが、2000年頃以降からは「活力」や「熱意」といった“ポジティブな心理”にも光を当てるようになりました。この包括的な「ワークエンゲージメント」という概念はオランダの研究者であるウィルマー・B・シャウフェリらによって提唱され、欧米、アジア、日本など世界各国で研究されるようになりました。
後者は、個人が組織に対して「貢献意欲」や「帰属意識」をどれだけ有しているかを表す、「従業員エンゲージメント」と呼ばれる概念です。欧米の調査会社や人事系のコンサルティング会社などが提唱した概念で、学術分野よりもビジネス分野で普及しています。
具体的な例を挙げると、「働き方改革」、「健康経営」などの文脈では、厚生労働省が関わっていることもあり、「ワークエンゲージメント」が用いられることが多いのですが、ここ数年注目されている「人的資本経営」などビジネスでの文脈では「従業員エンゲージメント」が用いられていることが多いようです。この違いを認識しておくことが、エンゲージメントそのものに対する解像度を高めるうえで重要ですが、現状は「ワークエンゲージメント」、「従業員エンゲージメント」が入り混じった形で用いられる場合があり、どちらの概念で用いられているかには注意が必要です。
エンゲージメントを規定する三つの要素
ここからは、主に私が専門とする「ワークエンゲージメント」について解説します。ワークエンゲージメントに関してはこれまでに数多くの学術研究が実施されており、「仕事の資源」「個人の資源」「仕事の要求度」の3つが重要な規定要因とされています。
出典:厚生労働省「令和元年版 労働経済の分析 -人手不足の下での「働き方」をめぐる課題について-」内、 第2-(3)-8図 仕事の要求度-資源モデル(JD-Rモデル)とワーク・エンゲイジメントについて (図中の「エンゲイジメント」を本記事では「エンゲージメント」と表記)
「仕事の資源」は、職場の人間関係や仕事の裁量度、会社からの評価など、働く人を取り巻く環境や仕事の性質をさします。一方で、「個人の資源」は、自己効力感や楽観性、希望など、属性や性格に紐付く個人的な要素であり、心理的資本とも呼ばれます。この二つの要素が相乗効果を発揮しながら高まることでワークエンゲージメントが向上していくと考えられています。
しかし、こうした世界観にはすでに限界が見え始めています。不確実性が高まる昨今の市場環境においては、従来型の硬直した組織からは自由な発想やイノベーションは生まれにくく、柔軟で先を見据えた組織運営が求められます。
一方、仕事に対するプレッシャーや対人関係のストレスといった「仕事の要求度」が仕事の裁量度に見合わないほど高くなると、ストレスが増大してメンタルヘルスが悪化し、仕事の資源や個人の資源の働きが阻害され、ワークエンゲージメントは向上しにくくなります。
「仕事の要求度」や「仕事の資源」といった概念自体はあまり馴染みがないかもしれませんが、実際は身近でも活用されています。
たとえば、労働安全衛生法に基づき毎年実施されている「ストレスチェック制度」で用いられる標準的な調査票には、「仕事の要求度」と「仕事の資源」を測るための質問が含まれています。回答者は「ストレス反応」とともに、「仕事の要求度」、「仕事の資源」の各要素の強み、弱みのフィードバックを得られるようになっています。
これまで、「仕事の要求度」と「仕事の資源」は回答を選択する形式の調査票で測定されることが一般的でしたが、近年はデジタルツールによる測定方法も登場しています。たとえば、ビーコンでオフィスの施設利用状況を定量化したり、社内SNSにおける会話の内容や量を調べ、「仕事の資源」としての社内のコミュニケーション状況を明らかにしたりする取り組みがあります。
また最近では、座位時間とワークエンゲージメントやメンタルヘルスとの関連性が明らかになってきていることから、スマートウォッチやスマートフォンによって従業員の座位時間の長さなどを定量化し、分析する学術研究も実施されています。
こうした取り組みは今後さらに身近になると考えられますが、デジタルツールで従業員に関するデータを収集する際、従業員に「会社から監視されているのではないか」と感じさせないための配慮が必要です。データ収集に際しては、「従業員の健康や働きがいを支援するためにデータを集める」という目的をしっかり説明して同意を得て、個人情報保護の観点からも必要な手続きを踏むことを前提に、会社と従業員の信頼関係を築いたうえで取り組みを推進することが求められます。
エンゲージメントを高めるワークプレイスのポイントとは
では、心理学の観点から見て「エンゲージメントを高めるワークプレイス」とは、どのようなものでしょうか。有効な施策として考えられるのが、業務活動内容に応じて働く場所を個人が自律的に選択できる勤務形態をさすABW(Activity Based Working)*¹です。
ABWの特徴である働く場所の自律的な選択は「仕事の資源」の要素である「裁量性」の向上を促すのみならず、働く場所を変える際にオフィス内を歩き回ることで、他部署の同僚と出会って情報交換するといった事象が発生し、「仕事の資源」に含まれる「職場でのコミュニケーション」や「社会的な支援」が向上することも考えられます。
「仕事の資源」は個人の心理面への影響も大きいことが知られており、これらのオフィス施策はワークエンゲージメントだけでなく、従業員のメンタルヘルスにも効果的です。同僚とのコミュニケーションが促される環境の仕掛けを設けることは、社内でのコミュニケーション不足や、それによる孤独感や孤立感がもたらすメンタルヘルス悪化を防ぐことにもつながります。
しかし、ワークプレイスを整備するうえで、心理学の観点から注意しなければいけない点もあります。特に重要なのが「組織の公正性の担保(組織公正)」です。簡単に言えば、従業員が職場において「公正に扱われている」と認識する感覚のことです。
組織公正は、組織における意思決定の結果である給与や昇進・昇格などに関する公正性(分配的公正)、組織の意思決定の手順やプロセスに関する公正性(手続き的公正)、組織内でのコミュニケーションに関する公正性(相互作用的公正)からなると学術分野では考えられています。
近年の研究では、手続き的公正と相互作用的公正が損なわれると、上司や同僚による支援が減少し、ワークエンゲージメントの低下につながる可能性が示唆されています。
ABWは「仕事の資源」を向上させるうえで望ましい働き方ではありますが、組織公正を担保しにくい一面もあります。例えば、営業職など外での活動時間が長い職種は、事務職や企画職などのデスクワーカーに比べてオフィス環境のメリットを享受しにくい可能性があります。オフィス環境への投資や整備は本社が優先されることが多いため、本社とそれ以外の事業所で環境格差がある職場も多く存在します。
これは、組織内の資源の分配に関わる分配的公正の問題と考えることもできますが、オフィス環境への投資や整備を決定する手続きに従業員の意見を十分に反映しないまま実施されたような場合は、手続き的公正の問題として顕在化することになります。
オフィスのメリットを感じづらい職種には、ワークプレイスを広く捉え、シェアオフィスサービスを利用できるようにするなど別の形でメリットを提供し、分配的公正が損なわれないように配慮することが考えられます。また、そもそもオフィス施策を決定する際に、職種関係なく全ての従業員からアンケートなどを活用して偏りなく意見を収集し、手続き的公正が損なわないように配慮することも重要と考えられます。
*1 ABW(Activity Based Working):オフィス内外に、さまざまな業務活動(アクティビティ)に適したワークプレイスを設定し、勤務場所を固定せず、業務活動内容に応じて働く場所を個人が自律的に選択できる勤務形態。
心理学的視点は経営の意思決定に活用できる
心理学とワークプレイスの関係において、人間の心理は一人ひとり違いますが、ワークプレイスはある程度、画一的に作らなければならないというジレンマがあります。そのジレンマがあるからこそ、ワークプレイス施策には「従業員一人ひとりの心理、働き方を把握した上でのファシリティやワークプレイスの設計が、従業員のエンゲージメントやメンタルヘルスの向上につながる」という理論的根拠を持つことが必要だと考えています。
これまでは、ワークプレイス整備は総務部、従業員のメンタルヘルスやワークエンゲージメントは人事部、といった分担が一般的でした。しかし、これからは従業員一人ひとりが生き生きと熱意を持って仕事に取り組める環境を、経営のリーダーシップのもと、総務部、人事部などが一体となり、従業員を巻き込む形で築いていくことが重要だと考えます。
昨今、ストレスチェックに限らず、エンゲージメントサーベイなど、従業員の心理を調査する企業が増えてきました。なかには「こんな調査に意味があるのだろうか」と疑問を感じている方もいるでしょう。しかし心理学は、人の心理という目に見えない概念を科学的に分析するための研究に関して長い歴史があり、100年以上前から統計学をフルに活用してきた学問領域です。心理学の専門性にきちんと基づいて実施された調査や分析であれば、オフィスで働く従業員の状況を把握することは充分に可能です。
人手不足がますます深刻化するなかで、「従業員のパフォーマンスの最大化」は経営の重要事項です。そうした問題に向き合ううえで、「心理学の知」をぜひ活用していただきたいと考えています。
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