働く人の健康や生産性、経営への効果など、建物が生み出す価値の多くは目に見えにくく、不動産の評価額にも表れにくいものです。その価値をどう可視化し、建物の性能を経済的な価値へと結びつけていけばよいのでしょうか。
そこで今回は、働く人が健康で快適に過ごすことができ、生産性も高められる「ウェルネスオフィス」に関して長年研究を重ねてきた千葉大学・林立也先生に、ウェルネスオフィスの現在地や、建物を評価することの本当の意味、そしてNEBs(Non-Energy Benefits)のような指標が拓く社会像について伺いました。
人材と経営を動かす「働く場の価値」
私が長く探求してきた「ウェルネスオフィス」は、一言でいえば、働く人が健康で快適に過ごし、生産性が高まるオフィスのことです。
私はもともと組織設計事務所で建物の環境性能を評価するツールであるCASBEEに携わり、その後、研究者としてもCASBEEや、その延長線上にあるウェルネスオフィスの研究へと進んできました。このウェルネスオフィスという分野は、「知的生産性」を研究する分野ともいえますが、当時は一部の専門家が扱う狭いテーマでした。それが、ここ数年で一気に注目を集めています。
その注目の背景には、関わる立場ごとにそれぞれの理由があります。
まず経営者の視点です。終身雇用を前提としていた時代とは違い、雇用の流動化が激しくなった今、働く環境そのものが人材戦略の一部になりました。経営者にとって、人口減少が進むなかで優秀な人材に選ばれ、働き続けてもらえる場所を提供することが大きな課題になっています。
次に不動産投資家の間では、環境や社会課題への貢献を重視して投資先を選ぶESG投資が広がっています。CASBEEやBELS、ZEBなど環境性能を評価する認証はすでに数多くありますが、社会課題への貢献度を評価するものはほとんどありません。そうしたなかで、建物の貢献度を評価しやすく、投資家にも価値が伝わりやすかったのが、人の健康に資するかどうかという観点でした。
さらに政府も「健康経営」や「人的資本経営」を掲げ、2026年3月に改訂された人的資本可視化指針でも、人材を確保するための投資の一つとして「職場環境の整備」が挙げられました。働く場を整えることが、公的にも経営戦略や人材戦略の観点から語られ始めたということです。
これらの動きを背景に、人の健康という観点から建物を評価する仕組みとして整えられたのが、CASBEE-ウェルネスオフィス(※1)です。
※1 CASBEE-ウェルネスオフィス:建物利用者の健康性、快適性の維持・増進を支援する建物の仕様、性能、取組みを評価する制度。2019年6月に公開された。
建物の“中身”の良さは、なぜ価格に反映されないのか
そもそもなぜ建物をわざわざ「評価」する必要があるのでしょうか。私は、その本当の目的は、「良い建物が正当に評価される市場をつくること」にあると考えています。
現在の不動産の価格は、立地や築年数でほとんど決まってしまいます。冬に結露だらけになるような建物でも、表面が綺麗であれば評価され、逆に、断熱や空調など、中身を丁寧に造り込んだ建物だったとしても、その価値が価格に反映されにくいという実情もあります。これでは、造り手が手間をかけて中身を造り込む意欲は育ちません。
だからこそ、第三者による評価が必要なのです。働く人にとって良いかどうかだけでなく、不動産の投融資の判断にまでつなげるためには客観性のある物差しが欠かせません。CASBEE-ウェルネスオフィスは、まさにそのために整えてきた仕組みです。
2019年に開始したCASBEE-ウェルネスオフィスの認証を受けた建物は、現在までに230件を超えました。ただ、その多くは新築の大規模ビルで、竣工から時間の経った既存ビルの認証件数は少ないままです。既存の建物では図面が残っていないことも多く、評価に必要な情報を集めるだけで時間や費用がかかります。この負担をどう軽減していくかが、普及に向けた大きな課題でした。
そこでひとつの方策として、既存ビルでも評価しやすい簡易版の「CASBEE-ウェルネス不動産」を2026年3月にリリースしました。いずれはこの評価結果が、一般向けの物件情報や不動産鑑定などへ当たり前に反映されることをめざしています。
建物の価値を企業の「機会」に変えるNEBs
過去に日本サステナブル協会の有識者勉強会などで関わった経験から、NEBsに関する印象や独自性についても言及します。
建物の良さを客観的に評価できても、その価値が経営者やテナント、投資家に伝わらなければ、働く環境を整備し、ウェルネスを高める建物をつくるための投資にはつながりません。カギになるのは“価値の伝え方”です。
たとえば省エネは、ともすると「やらされる義務」になりがちです。光熱費が削減されるというメリットだけでは、経営者が建物投資の意思決定をするのは難しくなっています。なぜなら、オフィスにかかる人件費、賃料、光熱費が占めるコストの割合は、おおよそ100対10対1といわれているからです。どれだけ光熱費を削ってもその効果は全体の1%ほど。省エネはもちろん大切ですが、それよりもはるかに大きな人件費、つまり働く人の状態こそが経営を大きく左右します。
そこで有効になるのが、健康増進や知的生産性の向上、人材の確保・定着といった、エネルギー以外の便益を金額に換算して示すという考え方です。NEBsはまさにこの「多様な効果を金額に束ねて示す」という発想に立った指標です。専門でない相手にも伝わる、経営の共通言語をつくろうとしているわけです。
私がNEBsに独自性を感じるのは、単に建物の価値を金額で表すだけでなく、投資を呼び込むような「機会」への影響まで捉えようとしている点です。たとえば、環境や働く場への取り組みがNEBsによって評価されれば、金融機関から資金を借りやすくなるでしょう(「NEBs12項目」、7「資金調達」)。さらには、働きやすい環境が優秀な人材を呼び込み、採用の辞退や離職を減らし(9「人材確保・定着」)、企業はより多くの成果を生む機会そのものを増やすという好循環のきっかけになるのです。
こうした資金調達のしやすさは建物の金額には表れにくい価値です。金融の世界とつながってこそ、NEBsのような指標はビジネス現場で意味を持つと考えています。
※NEBs12項目のイメージ
ここで、私が研究で関わった2つの事例を紹介します。たとえばある管理会社は、300棟近くのビルでテナントの満足度を調べたところ「CASBEEの評価点が高いビルほど、そこで働く人の満足度も高い」という関係性が見えてきました。
また、ある企業では、キャリア採用候補者に新しいオフィスを見学してもらうことで、内定辞退が大きく減ったそうです。「働きやすそうだ」「会社が従業員のことを考えている」という印象が、そのまま人材の獲得につながった例です。
ただし、数字の扱いには慎重でありたいとも思っています。経済性で語れば理解は一気に進みますが、その分、数字だけが独り歩きしてしまう怖さもあるからです。私たちの研究では、建物1棟のアンケート結果だけで語るのではなく、数百棟の事例を集めて統計的に確かめることを大切にしています。
CASBEE-ウェルネスオフィスの認証を取得した企業は、株式市場でどれだけ評価されているのでしょうか。PBR(※2)で見ると、いまのところ効果があるという仮説を立てられそうな段階です。誇張せず、確認できた範囲を正直に示すことを積み重ね、ウェルネスオフィスという新しい分野の信頼を育てていきたいと考えています。
※2 PBR(株価純資産倍率):株価が企業の純資産の何倍かを示す指標。企業が持つ目に見えない価値がどれだけ評価されているかの目安になる。
「不快を減らす」その先で、建物が選ばれる時代へ
最後に、実務で意識していただきたい視点をお話しします。私は、建物はあくまで「箱(場所)」だと考えています。箱が変わったとしても、それだけで人や組織に劇的な変化が生まれるわけではありません。場所、文化、ルールの3つが揃って初めて、狙った効果が生まれます。だからこそ、オフィスづくりは経営だけでなく、人事や総務の取り組みと一体で進めるべきです。
建物の価値を向上させるために着目したいのは、建物の「快適」よりも「不快」を感じる部分です。寒さや息苦しさといった不快は強く印象に残りますが、空調がよく効いていて、暑さも寒さも感じない部屋では、人はその快適さにわざわざ気づきません。つまり、働く人が「何も感じないオフィス」こそが、実は良いオフィスなのです。
この「不快の解消」は、働く人の離職や休職を防ぐことにつながります。快適性を付加して、ずば抜けた成果を出す人を新たに採用するよりも、不快を減らすことで力を出しきれていない人材の底上げを図るほうが、組織全体としては大きな効果を生むことも少なくありません。「知的生産性」を高めるための方策は、それらの基盤的な「快適性」を確保した上で取り組むべきであると考えています。
こうした発想で環境を底上げしようとする企業は、実際に現れ始めています。ある大手空調メーカーは、本社だけでなく各地域のオフィスもCASBEE-ウェルネスオフィスで評価し、幅広い従業員が働く拠点の環境を底上げしようとしています。企業ブランディングのために本社ビル一棟だけこうした認証を取得することも少なくない中で、この企業の取り組みは環境改善が人的資本への投資であるという本気度が伝わってきますし、社外へ開示すれば、後に続く企業も現れるでしょう。
この積み重ねの先にあると考えているのが、不動産の価値と情報開示が結びついた市場です。建物の中身の良さがきちんと開示され、価格に反映されるようになれば、良い建物は「選ばれる建物」になり、正当な競争力を持つようになります。
これは建築や不動産の関係者だけの話ではなく、そこで働くすべての人にとって良い変化だと言えます。「建物への投資は単なるコストではなく、人と経営の未来への投資である」という考え方を、多くの企業とともに育てていきたいと思います。
<プロフィール>
林 立也(はやし・たつや)
千葉大学大学院工学研究院 教授
2001年3月に東京大学大学院博士課程修了。2001年4月に日建設計に入社し、2010年8月に日建設計総合研究所に転籍。2013年9月に千葉大学大学院工学研究院准教授に着任、2025年10月より教授に昇任、現在に至る。CASBEE(建築環境総合性能評価システム)の開発に幹事として関わり、2019年にはCASBEE-ウェルネスオフィスの開発責任者を務める。現在、国交省「総合評価委員会」委員長、東京都「東京都環境審議会」委員、空気調和・衛生工学会理事、建築設備綜合協会理事などを務めている。