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國方 秀男 建築資料

電電建築と私 國方 秀男(1965年)

1965年10月9日 日刊建設通信 掲載

 電電公社に二十三年の在職中のことをふり返ってみると、私は実に恵まれた環境にあって過ごしたといえるであろう。公社の様な大きな組織体中の広範且複雑な建築業務の中にあっては万人が夫々希望通りの仕事を受け持つとは限らない。にもかかわらず私は文字通り建築の設計畑だけで終始出来、相当大規模な建築の設計ならびに監理を数々担当する機会に恵まれ而も所謂建築家的立場を維持しながら仕事をすることが出来たことは、よく私の特性を見抜かれて適所に置いて下さった上司先輩と、また同じ職場における大勢の同僚の方々の深い理解と協力とがあったればこそと誠に感謝に堪えない次第である。

 電電建築と私ということで話をすすめるには私の子供の頃にまでさかのぼらねばならない。分離派運動華やかな頃私は未だ小学生であったが、別の事情があって当時のその新しい運動の何であるかをおぼろげながら知り、山田守、堀口捨巳氏等のお名前も既に聞き及んでいた。そして震災復興に先がけて焼野に姿をみせた山田守氏設計の中央電信局の白亜の優美な建築を省線の窓から見て子供心にも大変感激して、中学生になる頃には既に建築設計を生涯の仕事としたい希望を持つ様になり、その後の私の進学の方向は迷うことなく建築へと向ったのであった。

 悠々大学で専門に建築を学ぶことが出来る様になり、建築というものにそろそろ目が開き始めた頃になると吉田鉄郎氏設計の東京駅前の中央郵便局や山田守氏設計の東京逓信病院の建築等に強く心をひかれる様になった。勿論その他にも堀口捨巳氏や村野藤吾氏、谷口吉郎氏、前川國男氏、坂倉準三氏等の作品にも同じく心をひかれたものであるが、卒業をひかえ就職先を決めねばならなくなった頃、私は当時の逓信省の営繕に於いて吉田、山田両氏の下で仕事が出来たらという強い望みを持つ様になった。

 先に述べた様に子供の頃から何か目に見えぬ糸に引かれるめぐり合わせの様なものを感ずる。幸にその希望はかなえられ私は逓信省に入ることが出来た。その就職のきまる頃、大学の恩師から逓信省は今本省庁舎がないが、いずれは新築されるであろう、その時は大いに腕を振い給えと冗談にいわれたのであったが、そのことは後に形をかえて実現したのである。

 兎に角その頃は若さに満ち夢と希望に胸をふくらませて建築の現実の世界に飛び込んだわけである。しかし間もなく第二次世界大戦の空白が無惨にも私を折角とりついた職場から引き離し、建築への情熱を終戦まで抑圧し続けたが、兵役の苦しさの中でも唯一の救いは建築への情熱であった。そうして終戦になり元の職場に復帰して製図板にむかった時の感慨は生涯忘れ得ないことの一つである。私の建築の仕事は実質的には終戦後に始まる。

 終戦直後の混乱した世相の中で半ば栄養失調の体に鞭うちながら約三年、小坂秀雄氏の指導の下で戦災復旧の木造電信電話局舎の設計を沢山に消化した。またその間既に退官して居られた吉田鉄郎氏が週二回嘱託として設計指導に来られ直々その御指導を受ける幸運に恵まれた。渇いた土が水を吸うように私は設計に夢中で取り組んでいった。多年にわたる戦争の空白をとり戻すために苦労はしたが、また楽しい毎日でもあった。

 漸く世相も落ちつき本建築の出来る時が来た。そして私は電電公社に籍を置くことになり次々と大ものの建築を手がける幸運に恵まれる程になった。我国でははじめてのマルチユニット電話局舎「千代田電話局」を手はじめに関東逓信病院、日比谷電電ビル等の設計監理を担当させて戴いた。建築界の諸先輩からみればまだまだ未熟者の私ではあったが公社に居った為にこの様な数々の腕を振るう機会が与えられたものと感謝に堪えない。幸い関東逓信病院と日比谷電電ビルとは相次いで日本建築学会賞作品賞受賞の栄を得、また関東逓信病院については社内で総裁表彰も得るという栄誉に輝いた。勿論これは、これらの仕事に関係された多数の方々の並々でない協力があったからこそであるが、また多年恩顧をこうむった公社に対して私の様な能のない者の出来得る一つの報い方でもあった。

 かくの如く私はずっと所謂、逓信建築の流れの中に優れた先輩の方々の指導を受けながら育って来た。よく逓信建築の伝統ということが逓信関係の内部また外部にもいわれて来た。一体何をさすのであろうか。近頃になって漸く私はそれをこんな風に考えるようになった。要するに逓信建築の伝統というのは、その時点、時点において現代建築の本質を正しく理解しこれを追求し、その結果を正しく具現することであると考えるのである。

 かつて我々の先輩はその当時世に先んじて現代建築の本質を正しく理解し、追求し、これを正しく具現したからこそ逓信建築の名を高からしめたのではなかったか。我々がその表面に表れた形のみを逓信建築であるとして追っていたのではその輝かしい伝統は枯渇してゆくばかりだと思う。先ず建築の本質の正しい理解把握である。今尚、私は自分の理解把握の程度に自信はない。しかし公社に居た間も、また公社を去った今も建築の本質を正しく理解し把握したいと努力をしたし、またその努力を続けている私である。

 終りにのぞみ現役の公社建築局の各位の健闘を心から祈っている次第である。私も公社では現役でないが民間に出れば建築界では立派に現役である。建築を正しく理解出来る本ものの建築家であるよう死ぬまで努力を続けたいと思っている。かつて東京逓信病院の建築に感激して逓信省に入った私がこれに上回る大きな関東逓信病院の設計をし、また学窓を出る時冗談と思っていた本社庁舎の建築も電電公社と機構は変わったがその本社建築の設計監理を担当することが出来たのは偶然とはいえ、全く感無量なものがある。

國方秀男 國方秀男
東京中央郵便局 東京中央郵便局
(設計:吉田鉄郎 竣工:1931年)
東京逓信病院 東京逓信病院
(設計:山田守 竣工:1937年)

インタビュー(1980年)

日 時 1980年8月20日(於:日総建事務所)
出席者 国方 秀男,沖塩 荘一郎,塚田 幹夫,前田 忠雄,江口 正明,二宮 和彦,斉藤 秀喜
資 料 東京理科大卒業論文より

国方さんはなぜ建築家になり逓信省にはいられたか

【江口】
先生はなぜ逓信省に入られたんですか。

【国方】
まぁ,これは私個人のあれになることだけれど。

私はね,親父が彫刻家だったんです。日展(昔の帝展)の彫塑をやってました。ヨーロッパ大戦が終わった直後でしたか。上野の不忍池から上野の山にかけて平和博と言う博覧会(1922年3月10日~7月31日)がありましてね。その時,当時すでに私の父もある程度名前が出ていました。若手の中でこれから伸びるといった程度の調子で。おやじの先生と言うのは新海さんと言って,この新海先生(新海竹太郎(1868~1927))はやっぱり彫刻家で明治時代の有名な彫刻家なんだけれど。

この人が東大の建築へ,あのほら堀(堀進二(1890~1978))さんとか石井柏亭(1882~1958)さんが建築の学生に彫刻や絵を教えに来られたように。その新海先生が東大の建築で教えられたわけですね。彫刻を。それと同時にあの分離派の時代でした。分離派が盛んになってくる時代で,それで分離派の連中が,山田守さんだとかね,木村栄二郎さんだとか滝沢真弓さんとか堀口捨己さんだとか,そういう連中が伊藤忠太先生の命令で,ということは平和をするについては,その博覧会の建築について伊藤先生のところに話が来たわけです。それを若手のそういう分離派の連中にさせようと伊藤先生がされて,そういう建築家の若手のまだ学生も混じっているような若手の連中が,その平和博の建築をデザインしたわけです。

そして,もちろん現場にそういう連中もたまにというか事務所の帰り,今で言う現場のかけきめやですな。そういう様なので来て,親父は親父でその新海先生から,そこに色々なモニュメントの平和の女神だとか,いろんな噴水の周りに彫刻を作るとか,そういう仕事を新海先生の書かれたのを受けて,現場でそういう建築の方々と接触する機会があって,そういうことで私はまだその頃,小さい子供だったですけれどね。親父がよく堀口さんあたりから,オランダの住宅の写真集みたいなものを貸してもらって,それをスケッチしてみたりしたことを覚えていますがね。それで堀口さんというのがまた議論好きでね。誰つかまえても美の問題だとかなんとか盛んに。僕の親父なんか辟易した口じゃないかと思うんだけどね。

ということがあって,それからそのうち東京の関東大震災があるころ…終わった直後かな。自分がたまたま,今で言う山手線か何かに乗って丸の内を通ったことがあるんですね。そうしたら周りに全然ないところに白亜の中央電信局(1925年)のアレが真っ白にこう建っていてね。僕はすごい建築だと思ったですね。そういう建築に対する感銘,それとか,僕は山手のほうの郊外に住んでいたものだから,子供の時,母親に連れられて東京の都心へデパートや何かに行く。たまたま東京駅へ連れていかれてあのバーッと吹き抜けの大きい空間ね。あんなのも初めて見たんですよ。

子供で4つか,5つ6つのことだからね。建築と言うのはすごい空間と言うか,そういう人に何かこう感銘を与える空間と言うものが建築と言うものにはあるんだなぁと言うことを子供にも感じてたんですね。意識,無認識に。

そうこうしているうちに白亜の立派な建物を見たりして,だんだん俺も建築やってみるかなぁという気がしてきました。中学に入るときに高等試験なんかで先生が君は将来何になりたいと質問されて,建築家になると言った覚えがありますけれどね。

それから僕は数学があまり好きじゃないんだけれど,理科系の学問あまり好きじゃないんだけれど,建築家になるためにはどうしても高等学校は理科に進まなくちゃいかんと言うんで,まぁやれば人並みにできるもんだから,そういうことで高等学校は理科に入って,それから大学で建築やるというようなことで。そして,大学の在学中にちょうど飯田橋の東京逓信病院(1937年)に見学に行ったことがありましたね。そのうちにどうもこういう仕事をやりたくなりましてね,大計画をね。

当時,満州国(1932年~1945年)ができたりなんかして,戒厳令が出る空気も強かったんですけれどね。逓信省に入れない位なら満州かどこかへ,なんていう気になって。そうしたら,たまたま,ずっとさかのぼれば山田さんだとか木村さんだとか親父は知っていたわけですよね。僕が逓信省入りたいと言ったら,あそこは確か,山田さんとか木村さんがおられるところじゃないかと言うことで。それじゃぁなおさら入りたくなっちゃってね。希望を出したらね,その時まだその時は次から次と逓信建築が建築雑誌に毎号のように乗っている時代でしょう。みんな希望者が多くてね。8名位希望したかな,30名のクラスで。そうしたら岸田先生(岸田日出刀(1899年~1966年))が今度の希望者が多いせいか,山田守さんが希望者の製図をみんな廊下に貼っておけと,学校の。

おれが言ってみると通達があって,それで僕ら製図室でもう,今日の2時ごろ山田守さんが来られるし,自分の図面は貼ってあるし,製図室の隅っこで戦々恐々としていた覚えがありますよ。それからしばらくして,内定通知というか,口頭試験を受けてもよろしいと言う通知がありましてね。それで5人,その時入ったのかな。私と山中と野村と茂泉,4人だったか,まぁ,初め8人位だったのがみんなその間に調整つけられたようですね,いろんな所へ。だがしかし山田さんと言うのは入ったばっかしの僕と野村とを前に紅茶茶碗に模様が付いているけれど,こういうデザインについてどう思うかなんて聞かれて戸惑ちゃって。(笑)

私は役所に入って8ヶ月は非常に小さいそういうのを2つやって,それから1つ仙台に何か電話局の大きいものを,これはコンクリートの大きいやつの図面をやらされてね。それは書き終わらないうちに僕は入営だった。

【前田】
それは建ったのですか。

【国方】
建たない。もう資材とかいろんなことで... 兵隊にいる間,もう本当に早く帰って製図板に向かいたいと言う気持ちでいっぱいでしたなぁ。

講演(1980年)

日 時 1980年10月21日(於:駒込電通生協会館)
登壇者 国方 秀男
資 料 建築技術ニュース(1981.11 No.144)より

 ただ今,御紹介にあずかりました日総建の国方です。

 私は,昭和15年電電公社の前身の,又前身の,逓信省に入省しまして,それ以降ずっと通信関係の部所にいたわけですが,昭和38年,ただ今の日本総合建築事務所に身分を移したわけでして,事務所を開設(1963年)いたしましてからすでに17年の年月がたっております。皆様方の中で御存知ない万もだいぶ増えているのではないかと思います。しかしながら,私どもは,事務所としていろいろ公社関係のお仕事を頂戴いたしておりますし,各地方の通信局にも時々お邪魔いたします。そういった関係で,ぜひ日総建の一員である私をお見知りおきいただきまして,参りました時に「あれ誰だ?」なんておっしゃらないようにしていただきたいと思います。

 それで,ただ今御紹介にありました私の自己紹介をさらにさせていただきながら,私が逓信省から電気通信省,さらには電電公社の建築局に籍をおいておりました間をふり返りまして,私のやった仕事などに関連しながら,自己紹介の話を進めていきたいと思います。

 ちょうど私が学校を出まして,昭和15年(1940年)に逓信省に入りましたが,16年(1941年)には兵役に入りまして兵隊にとられたものですから,16年の1月から20年10月まであしかけ5年間,軍隊生活を送りまして,その間建築とは無縁の設計ということに全く関係しない仕事ですごしました。ただわずか8ヵ月ですけれど戦前の逓信省の空気を吸いまして,それから終戦後,敗戦のあとの逓信省の復興業務に関係したのですが,戦前の逓信省の営繕を知っている者は,もう非常にわずかな方々ということになってきつつあります。

 その当時の営繕課というのは,一つの経理局の営繕課ということで建築関係があった所ですが,その当時から第一工事係,第二工事係と二つの係がありまして,第一工事係が通信関係,第二工事係が郵便関係と設計ならびに工事管理といったものをやっておりました。その他に第三工事係,第四工事係とありまして,そこに積算等の係と,それから構造は第一工事係にはいっておりまして,これは第一工事,第二工事の両方の構造をやっておりました。それでその当時の設計の進め方と申しますのは,各担当者が図面のブロックプラン,それからプラン,エレベ,矩計と,これが一応まとまりますと,必ず技師会というのが開かれまして,これには第一工事,第二工事の区別なく技師以上の方が全部集まりまして,その出来た案を審査するというよう形でした。それは非常に厳しいものでして,まさにその担当者は被告席におかれた人間のように,矢継早の質問で最初のうちは辟易するようなしだいであります。

 そしてそれがやり直し,いわゆる裁判で申しますとさし戻しとでも申しますか,何回かそれをやらされまして最終的にOKが出ると,その打合せ中にいろいろと出た現場の経験とか,設計上の今後はこうやってはいかんとかいうようなことを議事録としてちゃんと整理して小冊子にまとめていました。我々若い者がいいかげんな図面を書きますと,議事録ではこういう風になっているからこういうやり方はいかん,という風なことをきつく言われたものであります。で,そういった申し合わせ事項の議事録,とういったものは今で申しますと,いわゆる戦後の経験改良主義とか技術的な蓄積,積み上げといったようなことにつながってくるわけであります。

 それとその当時,逓信省はすでに皆様ご承知のように近代建築の時代に入りまして,山田守とか吉田鉄郎とかいった大先輩が現役としてさかんに作品をつくっておられ,私ども入りました時,すでに飯田橋の東京逓信病院,それから東京の中郵(中央郵便局)ができあがっていたわけです。そういった作品に憧れて私どもは逓信省に入ったわけであります。

 その当時,わずか8ヵ月で軍隊に入営しますまで,8ヵ月の短い期間ではありましたけれども,その逓信省の建築,設計のあり方について私の感じましたことは,とにかくそのブロックプランとエレベと矩計,これに対する非常に厳しい推敲と申しますか練り直しというようなこと,それからデザインに関しての非常な厳しい感じが印象的でありました。もちろん設計の方針と申しますか,ポリシーというか,そういうものは別に理論的にきちんと決った形をなしてはおりませんけれども,雰囲気そのものはそういった感じであったわけであります。やはり官庁営繕ということから態度は非常に質実な方向をもっておりますが,私が先輩から言われましたことは,役所の建物というのは品格がなくちゃいかんというようなこと,それから練りに練ることによって,あやまちの少ないものをつくらなくちゃいかんということ,それからデザインに関しては,平凡と申しますか,特にきわだったものではなく,むしろ平凡のなかに最高のものを作るということがデザインの一番むずかしいことではないかというようなことを聞いたものであります。それから設計と同時に施工の監督の厳しさ,当時逓信省の工事監督は非常に厳しいということは世間の評判であるくらい質の確保ということに現場担当の方々は意を使っておられたように思います。

 そして今から思いますと非常に素朴な感じではありましたけれども,その中に山田先輩,吉田先輩が自ら鉛筆をとって設計される態度,又我々を指導されるその態度には,非常にデザインの本質の尊重の精神が感じられたものであります。

 私も小さな無人局舎をやりました時に,出入口の前に小さな舗床を若いものですから建物自体とのつりあいで必要以上に横に伸びを感じさせるようなプランを作って持っていって,官庁営繕としてのそういう遊びとかそういったものは絶対いけないものだと吉田さんから諭された覚えがあります。それで結局必要小限の面積をペイブしてその奥行き,広さ,それのプロポーションを厳密に美しく納めるということを教えられたわけです。そうしておりますうちに16年の1月には軍服に着替えて,まったくそういう設計の世界から5ヵ年,空白の時代をすごしたわけですが,幸いにして昭和20年(1945年)終戦の年の10月には,残務整理をといったことで逓信省へ復帰いたしました。それでさらに半年ほどは仕事がありませんで,皆火鉢のまわりに集まって,椅子をばらして燃したりしながら,だべって過ごすというような生活がありました。半年ほどたちまして,ようやく中の組織も設計課と施工課に分かれて,私は第一設計係長という,もう経験も何もないのにいきなり戦後の人事の関係で,私と,ただ今,日比谷総合設備の社長になっております野村が,私が第一設計,野村が第二設計ということで,小坂課長のもとで戦後の復興の木造建築に3年間励んだわけです。当時の施工課長は,現在私どもの事務所の会長をしております中田でありました。このような体制が整いまして木造時代ということになります。

 しかし,その当時すでに戦前の数年間から戦後の数年にわたってやはり建築資材の非常にきびしい時代でして,逓信省関係でもすでに戦前戦中にかけまして,ご存知の燈台寮(1943年)とか大阪高等海員養成所(1943年)とかこういったものが昭和18年(1943年)にはできあがっております。だいたい戦後の木造,これは小坂課長の指導のもとでたくさんの局舎ができたわけですが,その逓信建築の木造の源流というのは,これはやはりこの燈台寮,大阪にありました高等海員養成所と,この2つが元ではないかと思います。

 世間一般にもすでにそういった資材難から木造建築がいろいろとできておりまして,丹下さんの岸記念体育館とか,前川さんのプレモス住宅,あるいは新宿の紀ノ国屋と,又それから25,6年以降になりますと,前後しまして,清家清さんの木造の住宅とか,木造建築のいろいろな例があります。しかしその中で私どものやりました逓信省の木造局舎は,一つの統一された中にも,非常に美しい感じを持っており,無駄のない,かなり高度な洗練さを示した作品が多かったように思います。その極点にありますのが,戦後では小坂さんのやられました東京逓信病院の看護宿舎,これが戦後さんざんやった木造建築の集大成と申しますか,これは学会賞をおとりになったわけです。

 そして,戦後の混乱のなかでたくさんの木造をやりましたが,ようやく25,6年ごろにコンクリー卜の建築が可能になりまして,それまで資材の割り当てで木材量といい木造局舎に使うガラスの量までも制限されまして一度決めた窓の大きさはなかなか形をかえることができないような状態でしたが,そうこうしていきますうちに,ただ今申しましたように宮崎の電話局がはじめて機械棟だけをRCでできるようになりまして,おそらくその宮崎のが第1号であったと思います。それと同時に,昭和26年,その当時はまだ通信はGHQ(進駐軍)の統制をうけていまして,いろいろ難かしい注文をつけられたわけであります。

 さきほど例に出てきました千代田電話局,これは今まで日本の電話局舎が一万端子を限度として,それをオーバーする毎に新しく一局づつ作っておったやり方だったのですが,GHQに通信関係の担当でオーディルというすごいおっさんがおりまして,そのマティブル形式というか,千万端子を一つの建物の中へつっこむ計画をしろという話があったわけです。

 基本プランを作って持ってまいりましたところ,従来の逓信省の建物には,更衣室とか,そとに勤務する人たちの宿泊設備とか,食堂とか,厚生施設が充分にとり入れられたプランであったわけですが,これを一見してものすごく怒りまして,電話局は機械があってそれを保守,管理する人が働く場所であって,そんなに余計な無駄なスペースをとる必要はなしということで,今の千代田電話局のプランができております。

 そのオーディルという大佐も,途中から朝鮮戦争が始まったわけで,工事中は日本を去って,朝鮮へ行っておりましたが,ちょうどその千代田の竣工披露の時に日本に帰ってまいりまして,その披露に立会ってくれまして,初めて数回GHQに交渉に行く時は机をたたきつけるようないきおいでどなりつけるようおっさんでしたが,できあがったのを見て,まぁお世辞でしょうけれど,よくできたよくできたなどと言っていました。

 それからその千代田電話局,さきほどいろいろ分析をしていただきましてまことに恐縮なんですが,何しろ大学を出てすぐ軍隊に入り実際の本格的な鉄骨鉄筋コンクリートの建物を設計したことのない私が,あれをやることになってベテランの若菜さんという先輩もおりましたし,当時入りたての内田祥哉氏(1947年入省)とかいった若手がおりまして,夜遅くまで夜業をしながらとにかくまとめ上げたわけです。今から思うと,よくあんな経験であそこまでと不思議でなりませんが,最初のマルチ局舎であるだけに,こちらもどうやってよいのかわからないのに夢中になってまとめ上げたものですから,今からふり返るとまことにはずかしい色々な問題点があります。

 御指摘のように窓の問題とか,十文字型の柱に空調のダクトをそわせると,柱を十文字にすることは構造学上非常に無駄なことであろうと思います。むしろあのように引っ込ませず真四角な柱であればもっと経済性が増したかもしれません。しかし何かその時から私は建築と設備がらみのことを考え始めていたように思います。

 そして,その次に私が関係しましたのは五反田の関東逓信病院ということになります。

 これはちょうど昭和26年から昭和31,2年まで,足かけ7年にわたって工事が行われ,これは予算の関係で年度ごとに何億というようなことで割当てられまして,その年度にそれを消化するだけの工事を進めていったのです。しかし,かねがね建築と設備がらみのことが頭にあったものですから,私は病院をやります時に,病院の内容に,普通のビルと違って当時としては医療器具,その他の設備関係の配管が非常に多い,これを何とか整理して将来の可変というようなことに対応できるような仕組を考えたいという風に考えて,この病院の設計の建築としてのまとめ方をやりたいと思っていたわけです。

 それで廊下の天井の中の電気の配線,今で申しますとダクトと申しますが,そういうものを木で作ったU字溝の様なものを天井の中に入れて,そこへ全てのメインの電気の配管を押し込むような形式。それからこういった点検用の廊下の天井は一つのパネル形式にしまして,パネルをはりつめ,将来どこでもはずせるという意図。そこから部屋の中へ行く時の,ケタ方向のハリには必ず根元の3つ,大中小位でしたか,大小位2種類のパイプを埋め込んで穴をあけて手伝き,将来そこに配管なり,電線なり通す役目をするのではないかということでだいぶ反対もありましたけれど,それをやりました。それともう一つは五反田の地域が住居地域でして20m以上の建物が建てられないという当時の条件の関係でああいうパビリオン形式になってしまったわけです。その継ぎの中央の廊下,メインの廊下をあの幅にすることの,当時非常な抵抗をうけた覚えがあります。しかし病棟のパニック時の患者を避難させる場所,あるいはその反対側には避難路をつけておりましたけれども,そういうことを理由に挙げまして,実行したわけであります。これの構造的な問題とか,病棟のただ今申しました中央廊下のハリをできるだけ低くして,中の配管等を充分に天井裏の納めたいという考えでいたのですが,これは武藤先生の御指導による構造方法によって可能になったわけであります。

 私は大学時代どうも構造はあまり興味もないし,単位もとらないくらい勉強しなかったわけですが,世の中へ出て実際の建築に携わるようになると,つい構造的な問題に色々とぶつかって,その都度単位もとっていない武藤先生のところへ駆けつけていろいろと教えをこうことが再三であります。それ以降ずっと,日比谷電電の場合,それから新宿の国際電信電話(KDD)ビルの時も武藤先生の御指導を仰いでやったわけであります。

 そうして関東逓信病院では配管類を全く露出を原則とするという様なやり方でやりました。これは色々な関係から,工費の点とかいろいろなものを考えますとむずかしい問題もあるでしょうが,病棟あるいは診療棟とか,ことに設備関係の多い建物ではこういった設備に対する納め方とか,色々な設計方針というような,基本の考え方は何がしか必要なことであろうと思います。

 千代田電話局から五反田の関東逓信病院に至りますまで,ようやくだんだん建築らしきことが解ってきたよう気がしました。それでもまだ中途半端ではありましたが病院が終わって帰ってまいりまして,日比谷電電にタッチするようになりまして,この時はわりあいに私自身も成長しておりまして,迷い少なく,こうあるべき,こうあるべきというような形で設計をまとめていけた気がします。しかし,これも振り返ってみますと,まだまだ足りない一面があります。まあそういったことで公社の仕事にも一応きりがつきまして,ただ今の日総建という事務所に籍を置くようになり相変わらず公社との関連において生活しております。それで,前に松本課長からメモ風にお尋ねのあったいろんな問題があるのでありますが,例えば公社在職中の電電建築のコンセンサスあるいはアイデンティティをどのようなものとして考えておったかと,どの様なものであってほしいと思ったか,という様なことですが,だいたいそのメモに従いまして,その当時私が考えていたことを簡単に申し上げます。

 やはり公社になりました時は,我々の生き方は合理主義に立って,技術と芸術との有機的な結合としての建築を成立させるということ,そして,その間は,きわめて調和,バランスのとれた仕組というものを意図していました。よく世間で,公社の建築はアノニマスというようなことを,非難ともつかず,何ともつかず言われるのですけれど,私はそういうことはないと思います。私は設計にたずさわります時は,やはりそれを担当する人の個の仕事になってくる部分が非常に多いと感じています。ですから我々が同じような行き方でやりまして,その担当者の個性がどこかに出てくるように思います。それと同時に建築の色々な移り変わりと申しますか,ことに公社のような形態で全国的に非常の多くの仕事をやる。しかも企業としての統一性とかそういったものが必要である,ということになりますと,私は建築の工業化の問題とか人間性の問題とかをからめて,何か建築の考え方がだんだんと変ってくるのではないかと,そうして又,それをどう建築の設計のとり入れてゆくべきかということ,そういうようなことをいつも頭の中で考えていたわけです。しかし私自身が何か建築の設計をするときは,そういった普段考えているようなことにかかわらず,逓信以来のそういう精神的なもの,あるいは訓練された技術的なもの,設計手法とかそういったものは,もうすっかり私の体にしみついているせいでしょうか。私の所属している公社とか,経歴とかそういうものにかかわらず,ただこれを建築をまとめるために付与された一つの条件として,あとは自分の思う通りにまとめていったという感じがするのです。そういった点で,そのあたりを分析するのは,非常に難しいわけです。ただいつも,やはり,自分のやっている建築の設計がだんだん具体化されていく段階においては,多数の方々の知恵とか,協力とかそういうものは当然、必要になってくるわけで,結局は大勢の人といっしょに仕事をやったというということにはなるのですが,何か建築の設計というものはそういった(個の仕事であるという)一面があるような気がしてなりません。

 そして,そういった私の公社在職から考えていることは,そう80何年も前のワーグナーが合理思想を提唱したその内容を根本においては,おそらく変わりがないのではないかと思います。

 例えば,「目的を正確につかんでこれを完全に満足させる」それから「施工材料の適当な選択」「簡単で経済的な構造」「以上を考慮した上で極めて自然に成立する形態」とこういう様なことを一つの新しい建築を作っていく考え方としてその著書に言っておるわけでありますが,まぁ現代の建築というものは,さき程も再々お話が出た様に,個々の建築を単に一つまとめるということでなく,やはり地域とか都市とか,あるいは人間生活,それからいろいろな経済,それから社会といったものの関連において,要素が非常に多くなってくると思います。まぁそういう風に,公社在職中は何となく考えていたわけでありますが,次の何か現在の建築活動,またどういう建築を作っていこうとしているかという様なことをお話ししたいと思います。

 私は,日比谷電電を終わって数年間標準設計室に籍を置きまして,その間ヨーロッパの病院建築を見て回って,初めてヨーロッパ建築を見たり,それからその後,今の事務所へ移りましてからアメリカ,カナダ,メキシコ,それからその後に再びアメリカへ,新宿のKDDをやります時に,小坂さんたちといっしょに行ったことなどで,海外の建築を見て現在に至っているわけであります。

まぁ私共の事務所は,70%位公社の仕事,これも実施設計部門ということで,民聞の仕事が30%になるかならないかですが,最近,今まで事務所でやりましたたみぶん民間の仕事で私がいささか少し関係したものを少し御紹介したいと思います。

 まず,佐倉の藤倉電線ですが,これは一番初めのブロックプランのいき方の指導をやりました。稲取の全電通の団結の家なども,これは配置の問題とか,思いつくことを口にするという程度で関係しました。

 それから個人的にある知り合いの軽井沢の別荘を一つやったこと,その後のKDD,これは小坂事務所と武藤事務所と日総建の3者の共同設計という形でやりましたが,これはもう完全に主体構造の形そのままがエレベーションになっているわけであります。

 最近では,富山県の県立美術館,これはチームを編成しまして,私も口だけは相当のつっこんで話をしたものであります。

 やはり建築の設計をまとめていく上の考え方は,戦前の逓信省の時代から公社の時代を通じまして,民間の一事務所となりましても,やはり何かずっとつながっている変わりのないところがある様な気がして,自分の不勉強をまた反省するのですが,これは一つの精神の底のずっと引き継いでいる伝統とでも言うことなのでしょう。伝統,精神というか,そういったものがやはりぬけきらないところなのだと思います。

 それから現代の電電建築についてということですが,私はいろいろと電電建築を拝見したり,また電電建築20年とかいう本をまとめられたり,拝見してますと,もう実に皆さんが日に日に電電建築というものを対象にして,よくもこれまでいろいろと研究をされ分析をされてきているという風にただ感心するばかりでして,何とも申しあげることもないわけでありますが,やはり一人の人間として建築を見る時に,在来の既成のものに対する疑問というものをたえず持っているべきではないか,これでいいのか,それからもっと何か方法はないかという様なことを常に考えていくべきではないでしょうか。

 それと今の様な多面多様な世の中になりますと,しかも情報でそういったものがどんどん建築に関してはいってきますと,いったい何をやったらいいんだろうという様な迷いというものが常に出てくるのではないかと思います。

 やはり,公社という立場で,公社の建築をどういう風にやっていくかという様な事を,いろいろすでに平生からお考えになっているでしょうけれど,やはり,重点思考といいますか,そういう選択,それに伴って明確な一つの主張,こういったものを設定されるのがよいのではないかという気がします。

 それから非常に観念的な言い方なんですけれど,観念的というか思いつき的なんですけれど,何かこう新しい触媒に相当する様なものが,設計の中に要素として一つ,今まで技術と芸術と何とかいうようないろいろな要素を分類してますけれど,そこの触媒的な何か一つの要素をつかむと,それによって化学変化を起こしたような形で,新しい設計が生まれてくるという可能性があるのではないかという様なことを考えたりします。

 それから理論的に,それから感覚的にまた観念的に,いろいろなことを一般の建築は言いますけれども,ただそれを具体化するのは形ということになりますので,その時にやはりデザインの原則というか,基本的なプロポーションの問題,スケールの問題といったことの厳密さというか,そういったものの素養が必要になってくるわけで,やはりそれは訓練なしではなかなか得られないものであります。

 私どもがはいった時の,ここから行ってあの板巾何cmだとか,この見付は何cmだとか,それからあそこの照明の径は何cmであるとか,そういうのをあてっこしたりしましたが,その様な自のスケール感覚というか,そういったものが実際の仕事になりました時の,高い所へいわゆる軒先の線,巾の決め方とか,そういうことへも関連する様に思います。長さと距離と,それによってどういう寸法が一番きれいに見えるかという様な,ごくごく初期のそういったデザインの原則的なものがあるのですが,そういったものの訓練というのは,当然皆さんやっておられると思いますけれども,ますますそれにはげまされて,常に美を生み出すというための,そういった訓練が必要ではないかという気がします。

 それと現代建築についてですが,私も以前,さき程話に出た内井さんの桜台コートビレッジを学会賞(1970年)に決める時にちょうど学会賞委員をやっておりまして,現物も見たわけですが,偶然にして今度また去年から内田先生といっしょでして,学会賞であちこちの建物を見て回ったり,それからBCS賞の委員をやったこともありまして,最近の建物を拝見しますと,なかなか我々ロートルには追いついていけないような一面が少し出てきたような感じがします。

 ことに去年,今スライドの出た「長屋」(1979年)を見ました時も,どうも私が育ってきた設計の感覚とはちょっと違った一面が出てきたなぁと,それから資生堂アートハウス(1980年)なんかのあの感覚はちょっと日本人にはなかなか出せない感じじゃないかなぁというとで,あの2つの選定にはかなりの議論が戦わされたのでありますが,ただ感覚だけで申しますと,口では言えないけれど何かちょっといいものがあるなと私は私なりに感じたわけです。結局最後には賛成の票をいれてしまうということになって,ちょっとこれは口でどう説明していいかわからないのですが,そういった理屈ではなかなか言えない一面が,建築のデザインとか設計というものにはあるのではないかと思います。

 それと最近よく逓信建築の伝統というようなことで,いろいろと分析されるととがままあります。また森下さんの文章で,伝統を口にすることに何か遠慮する様な気分があるとかいうことがあったように思いますけれど,伝統ということで最近皆さんも御存知でしょうけれど,白井晟一さんが,原広司さんと宮内康さんですか,あの2人と対談されたものを読んだら,白井さんの言葉で「世界史的な鍛練の中で伝統を拡大する目標を持つことが大切である」また「これをロジカルに展開するためには伝統と調和との接点をつきとめなければならないという問題が前提としてある。」それからもう一つ「伝統論を人間のアイデンティティから始めていったのでは,観念的な論理になる心配がある。」という様なことを言っておられます。

 私はちょっと気を引かれましたので,この点について今後私なりにいろいろ考えてみたいと思っている現況であります。そういう様なことでどうも内容が非常に散漫になってしまいました。最近、私は設計の実際から遠ざかっている様な環境におかれてしまったものですから,まことに勉強不足で申し訳ございません。しかしまた時を得まして,鉛筆を握って設計をやる時が来るのを待ち望んでいるわけです。皆様もそれぞれのその場その場で充分な御研究と御発展をお祈りいたしまして,まことにまとまりのない話でございますが,これで終らせていただきたいと思います。

 どうも失礼いたしました。

(日本総合建築事務所 代表取締役社長)
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