History
1885年
逓信省発足1885年(明治18)
逓信省は、内閣制度の発足に伴い、当時の農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と灯台局を移管し、通信と海運に関する業務を統括する中央官庁として誕生した。 “逓信”という言葉は、“駅逓”と“電信”から1文字ずつを採ってつくられた言葉である。
名古屋郵便電信局
1888年 設計:佐立七次郎
1890年
東京郵便電信局
1892年 設計:片山東熊
片山が得意とした櫛形ぺディメントや渦巻き飾りのついたパラディアンスタイルの設計が特徴。1923年の関東大震災により倒壊。
1895年
1900年
西欧様式建築
1885年の内閣制度の創設によって逓信省が設置された。この時期に、少数ではあるが西洋建築の教育を受けた日本人建築家が誕生し、彼らの設計による本格的な西欧様式の建築が徐々に建てられた。逓信省においても郵便、電信という近代的事業の器となるの局舎に、西欧様式建築の導入が必要と考えられていた時であり、それらの人々が建設にたずさわって、煉瓦造や石造による本格的な庁舎が建てられるようになった。
1905年
日本的モダニズム建築
1920年代、建築界は国際的に大きな転換期を迎えていた。これまでの様式主義的建築から、様式や装飾を越えた新しい表現を求める近代建築運動が起こり、様々な近代建築理論が試みられ、表現主義・構成主義・新造形主義などを経て、合理主義建築へと収束していった。機能的な要求を満たし、そこから建築を構成する合理主義建築は、コンクリートや鉄鋼、ガラスといった新しい建築材料の供給の拡大とともに、急速な勢いで国際的に展開していくことになった。逓信省の建築では、早い時期から自然との協調、比例(プロポーション)の美、清純性、規格統一といった日本建築の特性を捉えたものと近代の建築を融合する試みが行われていた。日本建築古来の手法である庇をめぐらせ、大きな窓を配置した局舎がそれであり、造形的完成を目指して、少しずつ努力が重ねられた。この逓信建築における庇スタイルのデザインや改良の手法は、他の公共建築にも大きな影響を与えた。
1910年
1915年
高輪電話局
1918年 設計:渡辺仁
1920年
京都中央電話局 西陣分局(現:NTT西陣別館)
岩元は、尖塔社という芸術分野の横断的な集団のメンバーであり、大正の表現主義的な傾向において、芸術性の高い完成度を誇る建築を目指していた。その中で生まれた西陣電話局では、軽やかなアーチの中央に張り出した出窓の構成も絶妙であるが、建築的構成よりも、西陣織の機業地からイメージされたといわれる天女をモティーフにした裸婦のトルソーが3本の柱の上に置かれ、面上に、同様のモティーフ入りのレリーフ・パネルを反復させることにより独自の強さが表現されている。いわゆる、岩元の「ガイスト・スピーレン」(精神的遊戯)を重視したことが伝わってくる作品であった。竣工時は、鉄筋コンクリート壁煉瓦構造の2階建ての建物であったが、1987年に改装され、ファサードがビルの一部に組み込まれた形状となった。
1921年 設計:岩元禄重要文化財/DOCOMOMO
東京中央電話局 青山分局
1922年 設計:岩元禄
「青山四丁目のところで都電が大きくカーブする。その窓に立ちふさがるように、こぶのある大きな腰石と、その上にまた大きなフルーティングのある柱形と半円扶の窓をもつ量的な壁があらわれる。堂々と周囲を圧している。」(蔵田周忠)
兵庫電話分局
1922年 設計:森泰治
大阪中央郵便局
1939年 設計:吉田鉄郎
大阪中央電話局
1927年 設計:森泰治
大阪中央電信局
1927年 設計:山田守
1925年
東京中央電信局
1926年 設計:山田守
大正デモクラシーの嵐が吹き荒れていた時代の中、完成時の新聞報道には、「建物は在来の様式を全く超越した近代式のもので、地下室から屋上まで七階の明るい一風変わった行き方で設計されている。外郭に表われた意匠は、山田逓信技師の独創に基づいて、窓や角等をすべて旋律的に考案された外に、新しい味あり、電話局としては我国に類例のないものである」(東京日日新聞、大正13年)とあり、人々の目をかなり引き付けていたことがうかがえる。
京都中央電話局(現:新風館)
1926年 設計:山田守
陸屋根と外壁に近い連窓により立面 はフラットな感じが強い。最上階の窓はアーチ状で窓下のスパンドレルは一般の壁面より引込んでいる。この部分のタイルが違ったパターンで貼られているのは、 北ヨーロッパ風の手法であった。
震災復興型局舎第一号京橋電話局
1926年 設計:渡辺仁(構造:内藤多仲)
陸屋根と外壁に近い連窓により立面 はフラットな感じが強い。最上階の窓はアーチ状で窓下のスパンドレルは一般の壁面より引込んでいる。この部分のタイルが違ったパターンで貼られているのは、 北ヨーロッパ風の手法であった。
東京中央電話局
1927年 設計:中山廣吉
褐色タイルで重圧な感じをもつモダン・ルネッサンス風の電話局は、更衣室、食堂、ピアノのある休憩室、20余名が一度に入れる浴場から洗面所まで、いずれも大理石造りで『まるで宮殿のよう』と言われ、わが国最大の電話局舎、東洋一の交換局とうたわれた。
千住電話局
1929年 設計:山田守
名古屋逓信局
1938年 設計:中山廣吉
東京中央電話局京橋分局
1910年 設計:内田四郎
戦前の局舎の標準化
関東大震災以降、京橋電話局09に見るような鉄筋コンクリート造の標準局舎は、耐震・耐火的な構造が優先されため開口部の小さい立面の意匠デザインであったが、この頃になると鉄筋コンクリート造の耐震技術の進歩により、大きな開口と美しい比例で配した簡潔で端正な意匠デザインで統一された。電話の需要増とともに類似した意匠を持つ局舎が全国に建てられた。
小郡電話中継局
1934年 設計:中山廣吉
京都中央電話局下分局
1935年 設計:吉田鉄郎
広島電話局西分局
1937年 設計:山田守
池上電話局
1937年 設計:中山廣吉
大月電話中継所
1938年 設計:吉田鉄郎
1930年
1935年
東京逓信病院
1937年 設計:山田守
逓信建築の合理主義の成果を代表する建築である。この後、山田守が一連の病院建築を手掛ける契機となった作品でもある。病院建築史上では、パビリオン式ブロック・タイプとされ、機能とプランが高度に一致している。山田自身「一切の贅肉を除去したザッハリッヒ(即物的)なリアルな姿を求めたのである」と語り、階高や柱間の単一化とサッシュの規格化、色彩の単純化が図られている。
1940年
国防電話局
1944年 設計:山田守
戦時下、内閣総理大臣官邸のとなりに建設された。爆撃による戦火を免れるため、防空壕としての機能を持つ建物であり、窓なしのパラボラ型の外観デザインが特徴的である。
断面図
地下2階から地上3階の計5層の建物で、空調はアドソールと呼ばれる除湿装置が主であったが、さらなる空気環境への配慮としてヒートポンプ式冷暖房装置のほか毒ガス浄化装置が導入され、照明に蛍光灯及び殺菌灯も用いられた。
1945年
電気通信省発足
1949年(昭和24)
東京中央学園宿舎
1949年 設計:内田祥哉
大手町電報電信局
1949年 設計:国方秀男
木造逓信建築
逓信省では、明治新政府の欧風化政策と耐火性能確保の必要性から、局舎の構造体には早くからレンガ造、石造など耐火構造が多く用いられ、大正末期から昭和初期にかけて次第に鉄筋コンクリート造によるものが主力を占めるようになったが、昭和に入り戦争に向かって世相が変わる中で、建設資材の欠乏から次第に木造局舎しか建てることができない状況になってきた。そのような中でも、設計の質は粗末な限られた材料しかなくとも決して低いものではなく、入念な設計により一切の虚飾を廃止し、ぎりぎりの材料を用いて格調の高いプロポーションの美しい建物が数多く建てられた。
1950年
日本電信電話公社発足
1952年(昭和27)
1955年
霞ヶ関電話局
1956年 設計:内田祥哉
中国電電ビル
1958年 設計:大澤秀行日本建築学会作品賞
局舎の標準化・高層化
電気通信省から電電公社へ移行し、社会の急速な経済成長を支える電話の需要の増大と電気通信技術の進歩に伴い、急増する通信局舎建設への対応を迫られた。大都市内の大型局舎に加え、その後の経済の急成長による地方都市の中規模局舎・中継所局舎などの建設需要の増大に対処するため、建築業務の効率化・技術水準の維持とさらなる向上が検討され、技術的な体系として局舎建築のハード面の「標準化」が進められた。
昭和40年代に入ると建築の大規模化や複合機能化が盛んになり、霞ヶ関ビルディングを代表とするような超高層ビルの出現により、計画手法や構築技術、関連する法規の面でも大きな変化が生じた。
千代田電話分局
1951年 設計:国方秀男
関東逓信病院
1953年 設計:国方秀男日本建築学会作品賞
1960年
日比谷電電ビル
モデュラーコーディネーションを導入し、空間ユニットや可動間仕切を設定するなど巧みで先駆的な手法をここで見ることができる。外観は、水平に長く伸び深い陰影をもち幾重にも重なりあうバルコニーと、建物下部の周囲をめぐるアーケードの柱列の構成が端正さと力強さを感じさせる。設備面でも、空調のゾーニングの概念が公社に初めて導入された。耐震壁・防火区画・空調ゾーニングが複合的に処理され、空調機械室も合理的に配置されている。逓信建築以来の伝統の上に、新しい電電建築の知識と経験が積み重なり美しく結晶したといえる作品。
1961年 設計:国方秀男日本建築学会作品賞/建築業協会BCS賞 /DOCOMOMO
1965年
大手町電電ビル別館
電話局として初めての純鉄骨造の高層建築である。
両サイドコアの明快なプランがダイナミックな通信機械室空間をつくり、平面形、立面形、構造体も無理なく整合性を保っている。特に外装のアルミカーテンウォールを、プレス成型による大型パネルとし、製造合理化、経済化を図った点に特徴がある。内装も同様に大胆なプレハブ化を図り、ローコストと生産性の近代化を図っている。
1969年 設計:大澤弘日本建築学会作品賞/第7回軽金属協会賞
1970年
大阪堂島電電ビル
1974年 設計:松田正司
インテリジェントビル
1978年頃には電話の需要供給均衡の時代に入り、大量の局舎の建設も一段落するなど大きな転換期を迎えることになった。企業活動における情報通信の果たす役割が拡大し、豊かな情報環境を提供するインテリジェントビル(ⅠB)の必要性が高まった。IBとは、高度通信機能、OA機能、ビルディングオートメーション機能という3つの機能が統合され、さらに知的創造活動にふさわしい快適な環境を実現する建築システム、環境プランニングを備えたビルである。1986年、日本で最初のインテリジェントビルとなる品川ツインズ22を完成させた。
1975年
横須賀電気通信研究所
1977年 設計:沖塩荘一郎建築業協会賞/軽金属協会賞/BELCA賞ロングライフ部門
石崎無線中継所
1978年 設計:沖塩荘一郎
1980年
1985年
NTT発足
1985年(昭和60)
品川TWINS
電電公社がNTTとなった翌年1986年に竣工したこのビルは、日本における本格的インテリジェントビルの第1号と評価された。事務棟と、データ棟の2棟構成。新型ビル電話等の通信システム、ビルディングオートメーションシステムなどを採用している。
1986年 設計:田中順三
1990年
NTTファシリティーズ発足
1992年(平成4)
Works&Project
片山 東熊Katayama Tokuma1856 - 1922
山口県に生まれる。ジョサイア・コンドルを師とし1873年に日本初となる建築学の教育機関として誕生した工部大学校に入学、1879年の第1回卒業生となる。
同級生である辰野金吾、佐立七次郎、曾禰達蔵とともに、後に日本を代表とする近代建築家として名を残すことになった。工部大学校卒業後、工部省技手となり、宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として官公庁諸施設などの設計に関わったほか、その合間に貴族の私邸等の設計も行った。代表作に 東京郵便電信局02、日赤病院、奈良国立博物館、京都国立博物館、東京国立博物館表慶館、神奈川県庁舎などがある。
佐立七次郎satachi shichijirou1856 - 1922
香川県に生まれる。片山と同じく工部大学校の建築学科第1期生であり、日本人建築家の養成を行うべく来日したジョサイア・コンドルの最初の弟子である。
工部大学校卒業後、工部省技手となり営繕局に勤務、海軍省を経て1884年には藤田組に入社、1887年に再び官途につき逓信技師となり、1888年 名古屋郵便電信局01を設計した。
内田 四郎uchida shirou1856 - 1922
1901年 東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。吉井茂則と共同設計した1910年完成の東京中央電話局京橋分局は、ゴシック様式の名建築であった。標準局舎のモデリングや流水防火装置の技術開発や導入に取組み、逓信建築発展の基となった。1923年の震災後は、電話施設の壊滅を受けて復興を推進した。いままでの構造に耐震計算を全面的に考慮し、防火に意を注いだ。1925年10月退官。内田建築事務所を開設し、満州にわたり事業を図ったが病いのため逝去。
渡辺 仁watanabe jin1887 - 1973
帝国大学工科大学長渡辺渡の長男として東京に生まれる。
1912年、 東京帝国大学建築学科を卒業、鉄道院に入る。同期生で逓信省の武富英一に誘われ、1917年に逓信省に移籍。逓信省時代の建築は高輪電話局03と日本橋電話局が彼の担当であったと伝えられるのみで設計活動の詳細は明らかではない。1920年退官。主な作品として日本勧業銀行、銀座服部時計店、第一生命相互本社(松本与作と共同)の他、設計競技が巧みで、1931年の東京帝室博物館(現:東京国立博物館/1937年竣工)は代表例である。
岩元 禄iwamoto roku1893 - 1922
鹿児島に生まれる。1918年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、逓信省に入る。入省1年後、志願して歩兵第一連隊に入営したが、病気が原因で除隊、復職した。1920年逓信技師として設計に専念するが、東京帝国大学に戻り、1921年に助教授に就任。しかし肺結核を患らい、翌年死去した。享年28歳。絵画、彫刻、音楽が趣味で、彼によって火を点けられた逓信省営繕課のデザインにおける創造力は、吉田鉄郎、山田守などの後輩によって受けつがれ、逓信建築という輝かしい伝統の礎となった。
吉田 鉄郎yoshida tetsurou1894 - 1956
富山県の代々逓信事業に縁のある家系に生まれる。1919年東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。大阪中央郵便局aにおける、柱と壁梁とで構成され残りが開口部という「架構式構造」は、従来の明治・大正の煉瓦造の伝統に基づく西洋建築の様式に対して、木構造の伝統による日本建築の意匠をとりいれ、日本にふさわしい現代建築を生み出した。この方針はその後、逓信省内だけでなく日本の建築界に受け継がれた。例として、国方秀男の日比谷電電ビルディング18はこの方針をさらに深く推し進めた作品である。
山田 守yamada mamoru1894 - 1966
岐阜県に生まれる。1920年 東京帝国大学を卒業と同時に、同窓の6名で分離派建築会を結成し、同年、逓信省営繕課に入る。分離派建築会の作品に紹介されたパラボラアーチの連続による特徴的なデザイン草案は、東京中央電信局07などにおいて現実のものとなり、初期のモダニズム建築の代表的な作品となった。永代橋などの橋梁デザインにも携わる。東京逓信病院12では、合理主義による逓信建築を確立。戦時中の1944年 国防電話局13設計を最後とし、終戦の1945年に退官した。その後も、日本武道館、京都タワービルなど、表現意欲の明快な作品を生み続けた。
森 泰治mori taiji1896 - 1951
1919年東京帝国大学建築学科を卒業し、同期の山田守と共に逓信省に入る。1926年12月逓信省を辞して宮内省へ移り、以後終戦まで宮内省で造常工事を担当。
作品のひとつである大阪中央電話局bは、昭和初期の逓信建築が国際派様式へ移行する以前に広く適用されていたルネッサンス様式の立面を持つ。華麗なオーナメントを持った大阪中央電話局と、分離派 山田守の大阪中央電信局cは隣り合って建ち、デザイン的対比が象徴的である。
中山 廣吉nakayama hirokichi1896 - 1987
横浜市に生まれる。1921年東京帝国大学を卒業、逓信省に入り、山田守の東京中央電信局07の隣に東京中央電話局10を設計。時の逓信建築の主流をなす、モダン・ルネッサンス様式を踏まえたデザインであった。 1930年代に入り、逓信建築も日本的モダニズム建築へと大きく変わって、名古屋逓信局庁舎dなど多くの国際建築様式作品を残した。
戦後、営繕部長、郵政大臣官房建築部長。退官後は、山田守の創設した第一建築株式会社の取締役会長に就任した。
国方 秀男kunikata hideo1913 - 1993
富山県射水郡に生まれる。第一高等学校を経て1940年 東京帝国大学卒業、同年逓信省に入る。翌年より兵役に服し、戦後逓信省に復帰。設計を担当した明石電話局、坂出電話局、大手町電報電信局15等、二十数局に及ぶ木造局舎の作品は、そのプロポーションの美しさから逓信スタイルと呼ばれ、世の注目を集めた。
1949年 二省分離後電気通信省施設局建築部設計課長に就任。戦後初の鉄骨鉄筋コンクリート造の大容量局舎 千代田電話分局kを担当。建物の空間構成が非常に優れていたため、その後の電話局の原型となった。関東逓信病院l、日比谷電電ビル18等の名建築を世に送り出した。
大澤 秀行oosawa hideyuki1920 - 2002
浦和高等学校を経て、1942年 東京帝国大学を卒業。逓信省に入る。1954年 日本電信電話公社建築局設計課長補佐等を経て、1969年 建築局長に就任、1972年 退職。中国電電ビル17は通信局・通信部・市外電話局・電報局などを統合した総合局舎で、大沢は課長補佐の職務を全うしながら設計に携わり1958年に完成させた。また、電電公社の社章デザインを考案した。
「Telegraph and Telephone」の二つのTを用いたシンプルで明快な構成であった。(右図)Telegraph and Telephone
松田 正司matsuda shouji1920 - 1988
和歌山に生まれる。1950年東京大学卒業、電気通信省に入る。主な作品として静岡電話局、岸和田貝塚電話局、大阪堂島電電ビル20、東海電気通信局庁舎などがある。1977年、ゼネコン設計部門の社会的地位を確立するため、フジタ工業株式会社に転じた。1984年建築設計本部統括部長、1987年常務取締役として活躍した。
内田 祥哉uchida yoshichika1925 -
東京都に生まれる。1947年 東京帝国大学を卒業、逓信省に入る。1948年 電信通信省技官。戦後の資材や予算不足の中、木造逓信スタイルの伝統を受け継ぎ、東京中央学園宿舎14を設計。戦後は鉄筋コンクリート局舎の代表ともなる津島電話局、霞が関電話局16の設計を行った。東京大学名誉教授。
著書に日本建築学会論文賞「建築生産のオープンシステム」の他、「建築構法」「日本の伝統建築の構法―柔軟性と寿命」「ディテールで語る建築」など多数。
沖塩 荘一郎okishio souichirou1928 -
茨城県に生まれる。1952年東京大学卒業、電気通信省に入る。主な作品としてクウェートテレコムセンター、横須賀電気通信研究所21、石崎無線中継所(RCタワー)mなどがある。1980年東京理科大学工学部建築学科教授、1997年宮城大学事業構想学部教授、2003年日本オフィス学会会長など歴任。東京理科大学名誉教授。著書に「高度情報時代のオフィス環境」「変化するオフィス(共著)」など。
田中 順三tanaka junzou1933 - 2015
北海道に生まれる。1956年北海道大学卒業、日本電信電話公社に入る。
主な作品として横浜電信電話会館、一ツ橋総合ビル、NTT品川TWINS22などがある。1992年、NTTファシリティーズ発足とともに初代社長に就任。2001年まで9年間、社の経営を牽引し、礎を築いた。
2005年東京建築士会会長、2006年建築士会連合会理事を歴任。
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