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特別寄稿

日比谷電電ビルディング

深尾 精一(首都大学東京(現東京都立大学)名誉教授)

 日比谷電電ビルディングと言われてまず頭に浮かぶのは、四周に巡らされたバルコニーであろう。1961年の建設であり、香川県庁舎が1958年であるから、超高層ビルが建設される前の1960年前後の一つのスタイルなのかもしれない。しかし、日比谷電電ビルのバルコニーは、「建築1961年4月号」に記載されている解説によると、奥行きの深い事務スペースの計画に対して、床から天井までの採光のための開口をとる必要があったためだそうである。鉄筋コンクリートの庇は、日射遮蔽・上階延焼防止・避難経路の創出など、現在は再び見直されている機能もあるが、1970年前後からの面一表現のビルの隆盛の中で、時代を感じさせるものとなっている。この解説には、さらに、『建物のサッシュの保護及び其他、保守上の足代等の役割をはたさせる目的があった。』と記載されている。

 この記述こそが、日比谷電電ビルの特徴を表していたのではないだろうか。当時の日本電信電話公社の建築局という、インハウスの設計組織、それも伝統ある極めて優秀な設計陣による指導のもとに設計された、竣工後の建物の利用・維持保全のありかたを重視した設計の産物である。いまでこそ「ファシリティマネジメント」という言葉が定着し、その重要性が広く認識されるようになっているが、「メタボリズム」が当時の若手建築家によって提唱されたのが1959年(もしくは1960年)であり、建築は新陳代謝すべきであるという主張のもと、変化に対応する意匠もしくは工法としての建築設計が注目されるようになる時代である。しかし、その後のそれらの建築の行く末をみれば、維持保全の態勢・組織のありかたを前提とした、建築に要求される変化への対応が重要であるということは明らかであろう。

 そのような観点から日比谷電電ビルを見ると、『比較的一般によく使われている材料許りである。ただ之等平凡な比較的価格も安価なものを夫々の特質を最大限に生かして使うことに意を用いた』という、先に紹介した「建築」誌の記述も、インハウスの設計らしさに溢れている。もっとも、事務スペースの自由度を高めるために採用された組立式移動間仕切は、設計密度が高いオリジナルに計画された部品であり、安価なオープン部品を用いるという現在の感覚からすると、十分に贅沢なものである。支持方法など、その後の可動間仕切りと比較しても高性能なのではないだろうか。 その移動間仕切りは、パネルを受けるための溝のついた複雑な形状をした断面の55㎜角のスタッド方式で、取り付くパネルなどの部品を含め、細部まで丁寧に設計されている。執務空間では3.5m間隔、収納空間では1.75m間隔で設置できるよう計画され、床にはピンを受けるインサートが埋め込まれていた。床面での間仕切り受けとしては過剰性能ではないかと思われるほどの緻密な設計である。

 当時の考え方からすると、可動間仕切りの自由度を高めるためには、グリッドプランニングが欠かせない。日比谷電電ビルは、事務スペースの机配置と地下駐車場のスペースから決められたという7mスパンの柱配置を基本とし、そこから割り出される、3.5m・1.75m・875㎜・437.5㎜という寸法系列を基本とした設計がなされている。1960年代後半は、建築モデュールに関する議論が活発な時期であり、1963年には、当時のJIS A0001 が制定されているから、約数の少ない7mという寸法が採用されたのには、どのような議論・検討があったのであろうか。使いにくい7という数値であるが、整数であり、1959年がメートル法の完全実施時期であったことも関係しているかもしれない。 可動間仕切りによる大空間のスペース分割は、その後、霞が関ビルに始まる超高層ビルに引き継がれ、無柱空間の実現と合わせてその実効性が高められていくことになるが、霞が関ビルでは6.4mが採用され、それを基にしたスプリンクラーの基準などによって、長らく超高層ビルの主流となっていた。しかし、現在は7.2mを採用する建築も少なくない。実は、1960年代に始まるヨーロッパのシステムズビルディングでは、300㎜・600㎜の倍数であり、分割しやすい寸法の7.2mが数多く採用されている。日比谷電電ビルでも7.2mの柱スパンとしていたら、より使いやすいものになっていただろうと思うのは私だけであろうか。

 その徹底したグリッドプランニングから、天井も437.5㎜角のパネル天井が採用されている。特に共用部のアルミパネル天井など、時代に先駆けたものである。日本では新宿三井ビル以降のシステム天井が設備との取り合いから、長い間ライン方式が採用されていたが、2000年以降の10年間で、急速に欧米で主流となっていた600㎜角のグリッド天井に移行している。日比谷電電ビルでは、40年先駆けてそれに近いグリッド天井を提案していたことになる。「必然的な設計」の極みとも言えよう。

 一方、電気関係の設計チームの判断なのであろうか、電話線のための埋込フロアダクトの取出し位置が50㎜ピッチであったということが、3.5mの1/8ではなく1/7となっていることが興味深い。この細かなピッチは、さすがに電信電話公社の建物である。

 この建築の大きな特徴である、コアとそれを取り巻く廊下の外に、収納スペース・階段・シャフトなどを設けた二重コアとした平面もすべて7mから導き出される寸法系列で統一的に計画されていることは、見事というべきであろう。

 なお、引用した「建築」誌には、内田祥哉先生(当時35歳・2021年5月に96歳で逝去)が寄稿されている。内田先生は、すでに電電公社を退職されて東京大学に移られており、インハウスの設計課の仕事に進め方の変容を危惧されていた。その後のプレハブ化・工業化を推し進めたと理解されがちな内田先生の、丁寧に設計をすべきであるという建築家魂の発露の文章である。1970年代に建設省官庁営繕部がシステムズビルディングの開発に取り組んだ際にも、内田先生は、設計の省力化のためにシステム化を図るのではなく、建物ごとに丁寧に設計をするべきだと強く主張されていた。設計の効率化に対する本質的な疑問である。この寄稿文は、これからも参照されるべきであろう。確かに、日比谷電電ビルディングも、電信電話公社建築局の國方秀男の指導の下、「公共建物株式会社」が設計施工監理を行ったというのが正式な記録である。

 かなわぬこととなってしまったが、内田先生に解体を迎えた日比谷電電ビルディングについて、そして建築設計者・建築家のありようについて、改めてご意見を伺いたかった。

NTT日比谷ビル外観 NTT日比谷ビル外観
撮影 山田新治郎

NTT日比谷ビルバルコニー NTT日比谷ビルバルコニー
撮影 山田新治郎

NTT日比谷ビル解体 NTT日比谷ビル解体
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