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特別寄稿

NTT日比谷ビルの記録とオマージュ -インハウス建築部門の立場から-

米川 清水(元NTTファシリティーズ常務取締役建築事業本部長/電電建築協会理事)

 都心の喧噪がしばし遠のく深い木立に囲まれた日比谷公園に面して、NTT日比谷ビルはその端正な姿を示しています。

 わが国の高度成長期の真っただ中であった1961年(昭和36)に日本電信電話公社の本社ビルとして建設されてより、1985年(昭和60)民営化された新生NTTの本社オフィス、また再編で誕生したNTTコミュニケーションズの本社オフィスと、入居組織は変わりましたが、わが国の情報通信事業の要衝として、日本の発展またNTTグループの躍進を支え続けてきました。

 一方、ITやAIの進化はとどまるところを知らず、また地球環境問題などもトリガーとなって、価値観の変化・パラダイムシフトがますます顕著になり、働き方や都市も大きく変わり始めました。そして、このビルが建つ内幸町一体も全面的に再開発され、新たな時代を担うにふさわしい世界最先端の街区に生まれかわることになりました。これを機会に、情報化社会実現への重責を立派に担い続けてきたNTT日比谷ビルについて、その記録と記憶を、逓信建築から連なるインハウスの建築部門に帰属していた者の一人として振り返ることとします。

■プロローグ

 皆さんご存じの通り、わが国の電信電話事業は長らく国の直営事業として営まれてきましたが、終戦をむかえ戦災復興そして先進国家へと飛躍するため、電気通信網の整備拡充を速やかに進める必要に迫られたことから、1952年(昭和27)に公共企業体の経営形態による日本電信電話公社が発足しました。本社は、港区赤坂葵町(現虎ノ門二丁目)の旧電気通信省本省ビルのままでのスタートとなりましたが、程なくして新しい本社ビルが必要との議論になり、現在の千代田区内幸町にあった社有地を敷地として計画が開始されました。

 当敷地は、古くは日比谷入江といわれた江戸前に続く一帯でしたが、江戸時代には江戸城日比谷御門のすぐ外側に位置することから、錚々たる大藩の大名屋敷が置かれていました。明治維新直後の古地図には薩摩屋敷等の名称も残っていますが、その後この街区には明治政府により鹿鳴館が建設され、文明開化の華やかな舞台を担うこととなります。大正時代になり鉄道整備が進み東京駅が開通すると、丸の内から日比谷、霞ヶ関にかけてはオフィスビルや銀行、また官庁の建物が集積していきます。

 1923年(大正12)には、世界的に有名な建築家フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル旧館、また昭和に入ると隣地に、ギリシャ式列柱が配された旧日本勧業銀行本店が新築されていきます。そして向いの日比谷公園内には、当時都内唯一の本格的音楽ホールでもあった日比谷公会堂が建設されるなど、日本を代表する都市景観を構成するエリアとして発展してきました。

■新本社ビル基本方針

新本社ビル計画基本案の作成に当たっては、収容人員についての克明な分析調査や、大都市に建つ既存のオフィスビルの調査検討からスタートされ、そこで得られた成果を基に公社経営調査室に設置されたオフィスレイアウト委員会において、種々根本原則の事項について審議が重ねられました。その結果、広い基準階面積の確保、収納空間を分離した整然としたオフィス、将来の組織変更に容易に対応できるフレキシブルなオフィス、また全館空調の実施など、近代的な大規模オフィスビルとして設計に織り込むべき基本方針がまとめられました。

■近代的オフィスの先駆け

 これらを受けいよいよ設計が着手されました。建物の規模としては、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下4階地上9階建て、高さ31m、建築面積約6千㎡、延べ床面積約7万5千㎡と設定され、当時としてはほとんど前例を見ない、大きな床面積を持つ近代的事務所ビルの先駆けとして具体的な設計が進められました。

 建物の配置計画に当っては、敷地の形状、前面道路である日比谷通りとの人や車の出入り動線、建物自体の規模、既存の霞ヶ関電話局(旧館)局舎と、そのケーブル引き込み洞道とのからみ合い等について慎重に検討が重ねられました。その結果、できる限り建物周辺に敷地のゆとりを残すよう努め、車の出入路、地上駐車スペースとして活用できるような配慮がなされるとともに、前面道路の激しい交通量に伴う車の出入り毎の混乱を避けるため、車路は一方通行とし、地下駐車場の入り口を前面道路から離れた敷地の奥に設けられることになりました。また、1・2階の外壁を建物の外周より3m後退させ、そこにできるアーケードを歩道として計画し、安全性や雨天時への便宜が図られることになりました。

 建物の平面計画に当っては、広い基準階面積により可能となる大きな純執務空間の確保のため、「センターコア方式」が採用されました。センターコア方式とは、建物に必要とされる階段、エレベータやトイレなどの水廻り、また配管用シャフトなどを平面中央、各階同じ位置にまとめて設置し、そのまわりに執務室を配置する、新しい平面計画の一つです。それ以前、空調設備が一般的でなかった時代においては、トイレなどを外気に面して配置する必要があったことから、本格的に導入されることは有りませんでした。また、コア周辺に集約される壁は、耐震構造上のコアとしても活用できることから、極めて合理性の高い平面計画と言えます。一方、コアの四周には幅3mの廊下が配置され、それに並行して書類・ロッカーなどの収納スペース、空調機械室などを帯状に規則的に配置されることにより、収納と執務が分離された奥行き15mの広々とした純オフィス空間を確保する計画案が固められました。そして柱間の寸法は、机、椅子の配列、また地下階車庫での車両取り廻しなどが勘案され、東西・南北とも7mが採用されました。

 オフィス空間のフレキシブル化については、組織改編や移転によるオフィス模様替えニーズに対し、最少の時間とコストで施工するために不可欠な考え方です。そのために最も重要な事はオフィス空間のモデュール化、間仕切り壁位置の単位化に基づく各種システムの規格化です。そのため、柱間の1/2、すなわち3m50㎝毎に主要な間仕切り壁が設置できるシステムとして、その区画単位毎に天井照明や空調吹き出し口、スピーカやコンセント、スイッチ類を配置するモデュール化が考案されました。この考え方に基づき、天井や内部仕上げ用材料の基準寸法は、柱間の1/4、1/8、1/16の長さに標準化されるとともに、間仕切り壁や廊下との隔壁は、全て随時移動可能な組み立て式の構造として新しく開発されました。間仕切り壁専用の柱は、四つのどの面にも壁材が差し込めるようにホゾが施され、無塗装でメインテナンスフリーのステインレス製が採用されています。

 一方、標準化された同じ高さの間仕切り壁を取り付けるため、天井面を全面フラットにする断面計画が採用されました。そして広い執務空間の快適さを担保するため、天井高さは2m60㎝が確保されました。当時は、建物の主要構造である梁を天井面から下部に一部露出させる方式がごく一般的でしたし、わが国で2m60㎝以上の天井高さが一般的になるのは1970年代以降ですので、このようなフラットな天井が外壁の全面ガラス連窓サッシまで続く、開放感あふれる大規模オフィスの出現は誠に画期的なものでした。

 外周には、幅1.8mのバルコニーが設けられてあります。採光や通風、非常時避難路の機能はもとより、陽射し遮蔽として省エネ、外壁や雨樋のメインテナンスの容易さ、騒音対策などにも役に立つよう、細かな配慮が施されています。それらのそれぞれが、今でこそわが国のオフィス建築で普通に用いられるようになった考え方でありますが、半世紀も前に当ビルで初めて開発、採用されたものも多く、いかに斬新かつイノベーティブな設計であったかに驚かされます。

■本社ビルとしての佇まい

 外観を見てみますと、水平に長く延び、深い陰影を持つ幾重にも重なったバルコニーにより、風格あるフアザードが構成されています。1・2階部分は壁面をセットバックして柱型を独立させ、垂直の列柱と上部の水平線のコントラストとリズム感を際立たせています。仕上げの材料は、室内・室外ともに耐久性や経済性を考慮して、ごく一般的な素材の採用が原則とされました。ビルの顔とも言える正面玄関をはさむ両外壁面にも、普通に見かける伊豆青石が採用されましたが、それらを乱石積張りとして、大胆に積み上げた断面を見せる構成を考え出すことにより、簡素ななかにも品格ある外観を作りだしています。

 またエレベータホールに面する階段は、装飾性をそぎ落とした直線的でシンプルな形をそのまま現わしていますが、それが接する壁面には、階段の勾配と交叉する形で施釉タイルが張られています。この釉薬の窯変による奥深い発色を得て、全体に色を押さえた「いぶし銀」といわれる建物の中で、この壁が唯一色味のある箇所として、本社ビルとしての風格を高めています。

 このような設計に基づき、1958年(昭和33)5月に地下基礎部分が着工され、1961年(昭和36)1月にめでたく完成を迎えることになりました。

 そして日比谷電電ビルは、センターコア方式の採用、可動間仕切りのモデュール化によるフレキシブルなオフィスの構築、また近代的な建築設備の導入など革新的な技術を開拓し、新しい時代にふさわしい大規模オフィスビルを代表するものとして実現したこと、また建築的、都市景観的にも極めて完成度の高い建物であることが評価され、設計責任者であった國方秀男氏を代表者として昭和36年度(1961)の日本建築学会賞が贈られました。

鳥瞰(左端:帝国ホテル旧館) 鳥瞰(左端:帝国ホテル旧館)

南西側からの見上げ 南西側からの見上げ

北西側からの外観 北西側からの外観

正面外観 正面外観

エレベータホール外観 エレベータホール外観

間仕切り壁 間仕切り壁

間仕切り壁ディテール 間仕切り壁ディテール

■継続的な再生

 最近マスコミなどでも建築の長寿命化という言葉が話題になることが多くなってきました。鉄筋コンクリート造りの建築物の法定寿命は50年と定められていますが、これは単に原価償却費の算定ルールであり、適切な保全・維持管理を施せばそれ以上に利用し続けることができることから、スクラップアンドビルドで頻繁に解体・新築を繰り返すより、はるかに省エネや省資源に有効であるという考え方です。NTT日比谷ビルも長年の使用の中で、時代時代のニーズの変化に的確に応える形で多くのリニューアルを繰り返しながら、その機能を継続して発揮してきました。

 民営化を迎えた昭和60年(1985)には、新しいコーポレートデザインの制定もともない、企業イメージの一新が図られました。4月1日には当ビルの1階正面玄関に新しい社章「ダイナミックループ」が掲げられ、真藤恒初代社長が誇らしげに除幕される映像が、新生NTTの誕生として繰返し全国に流されました。そして最新の情報通信システムをPRするショールームや、ラウンジ風の社員食堂がオープンする一方で、6階にあった講堂は一般オフィスフロア化のため撤去されました。また当然のことではありますが、イメージだけではなく、民間企業にふさわしい経営形態へと組織の大改革が実施されましたが、すさまじいスピードで変化し続けるビジネス環境や市場動向の変化に即応すべく、組織の改編や業務の見直しは、以降頻繁に行われるようになります。あわせて当時は、まさに報通信革命の端緒の時代でもあったことから、どんどん新しい情報端末がオフィスに導入され始めるとともに、ビジネス・プロセス・リエンジニアリングの動きも広がり、輪をかけて組織の改編・統廃合が頻発するようになりました。それらは取りも直さず、オフィスの模様替え、レイアウト変更ニーズの増大につながることになりますが、上に見た新築時のモデュール化に基づくオフィスのフレキシブルシステムが極めて有効に機能し、それらの需要に迅速かつ経済的に対応することができました。

 1996年(平成8)には、新築されたNTT新宿ビルへの本社オフィス移転に伴い、竣工後35年経過した当ビルは大規模なリニューアル工事が実施されることになりました。コンセプトは大きく2つ、一つは改正法規へのアップデートと、劣化・老朽化への対応など「安全性・機能の回復」、二つ目は「機能の向上、環境整備」として情報通信システムの高度化にあわせたビルのインテリジェント化、また創造的なワークプレイスを実現するための業務支援空間の整備が掲げられ、新しいオフィスとして生まれ変わりました。具体的には、当初は木材で作られていた天井下地の不燃化、防火区画の整備、省エネ型照明、個別空調の追加、またインテリジェント化として情報通信シャフトやOAフロア(二重床化)によるワイヤリングのフレキシブル化、サーバー室の確保、入退室セキュリティなどが充実・強化されました。そして平成11年(1998)には、会社再編により創設されたNTTコミュニケーションズの本社ビルとしての利用が始まりましたが、このような大規模リニューアル施策や日常のメインテナンスにより、求められるさまざまなニーズに対応し、その機能を発揮してまいりました。

■おわりに

 時代の最先端を切り拓き続けるミッションを担うNTTグループの本社ビルとして、創建時には想像もできなかった劇的な変化を幾度ともなく経験してきた中で、立派にその機能を果たし続けることを可能にした歴代の先人たちの知恵と努力、また長年にわたり大事にお使いいただいてきたお一人お一人の想いの積み重ねに対し、心から敬意と感謝を表すべきものと思っています。そしてその志を忘れることなく、次代を背負っていかれる若い方々にも、NTTの大切な記憶の一つとして伝えていくことができればと願っています。

出典

写真:竣工写真 日本電信電話公社建築局 1962年
図:竣工パンレット 日本電信電話公社建築局 1962年

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