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「火事と防災は江戸の華」新年に今も残る防災文化の風情

2018年1月10日

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 毎年新年を迎えると、全国各地の消防署で仕事始めの儀式「出初式」が行われます。今では新春の風物詩として定着している出初式ですが、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。

 江戸の300年は、火災や地震、火山の噴火などの大災害が集中した時期であるといわれ、消防組織の整備をはじめ防災の取り組みが一気に進んだ時代でもあります。江戸の人々は、どのように大災害と向き合っていたのでしょうか。江戸の文化を探りながら、当時の防災活動を紹介するとともに、その中から今日にも通じる教訓を考えます。

大火災とともに「江戸」の華となった火消

 「火事と喧嘩は江戸の華」という有名な言葉があるほど、江戸の町では非常に多くの火事が発生しています。そうした中で整備されていった消防組織が「火消」です。

 1629(寛永6)年、三代将軍徳川家光の時代に、江戸に初めての火消である「奉書火消」がつくられました。1643(寛永20)年には、家光が16の大名家を指名して「大名火消」を設置。これは、主に江戸城や武士の家を火事から守るための組織でした。

 1657(明暦3)年には、「明暦の大火」が起きて江戸の町は焼け野原になります。そこで、こうした被害が二度と出ないようにと、四代将軍家綱は4人の旗本に命じて「定火消」という消防組織をつくりました。

 出初式を初めて行ったのは、この定火消だとされます。1659(万治2)年1月4日、老中稲葉伊予守正則が、定火消総勢4隊を率いて上野東照宮前で気勢をあげ、これが出初式と呼ばれるようになりました。

 1718(享保3)年には、テレビドラマなどでも有名な南町奉行の大岡越前守忠相が町火消設置令を出します。町火消は、これまでの幕府や武家の建築物だけを守る火消と違い、町人地区を火災から守る、町人によって構成された消防組織です。

 その町火消にも、定火消の「出初」をまねる習わしが伝わりました。木遣歌(きやりうた)を歌い、はしご乗りなどを披露するものでした。現在も出初式で、木遣歌やはしご乗りが披露されることが多いのは、その風習を受け継いだものです。

 このように江戸時代は、相次ぐ火事に対して消防組織が整備されていった時期でした。

火事なのに火を消さないで何をする? 江戸落語にみる消防活動とは

 江戸の火消は、実際にどんな消火活動を行ったのでしょうか。江戸時代の落語から、当時の消防活動のようすを知ることができます。

 江戸落語「火事息子」は、子どもの頃から火事が好きだった質屋の若旦那が、実家を勘当された挙句、定火消の人足である臥煙(がえん)になり、やがて実家の近所で起きた火事に出動して実家を守るという話です。

 この落語で若旦那は、蔵に火が入らないように扉や窓の隙間を練り土で目塗りするのを手伝います。当然のことながら江戸時代に、消防車やスプリンクラーをはじめとした高性能な消防設備はありません。そのため、消防活動の中心は、現在のような「消火」ではなく、火事息子に出てくるような「防火」、それと「破壊消防」が中心でした。

 防火については、タバコの喫煙や花火を禁止した時期もあるほど徹底して行いました。そして、一刻も早く火事を発見するために「火の見櫓(やぐら)」を設置しました。

 もしも火事が発生すると、火消が現場に駆けつけます。そして指揮者が風向き、火勢の状況、家並の構成などをもとに指示を出し、火消人足が道具を使って火元より風下の木造家屋を次々と壊していきました。これが破壊消防です。

 その際に、町火消などは組頭の指示で適当な家の屋根に纒(まとい)と呼ばれる旗を上げ、それに竜吐水(りゅうどすい)という放水ポンプのようなもので水をかけ続けました。それは消火のためというよりは、纒持ちの命を守り、纒を掲げた家から風下に延焼しないようにする工夫でした。

 十分な消火設備がない当時は、そうやって延焼を防ぐことが最大の消防活動だったのです。そして、消火活動に限界があったことから、江戸の町は都市自体が防災を重視したデザインへと変化していきました。

 たとえば、江戸の各地には延焼防止のための空き地である火除け地が設けられました。建物についても、土壁で塗りこめた塗屋造りや、板葺きの屋根から瓦葺きの屋根へと燃えにくい素材に切り替えることが奨励されました。

ナマズ地震予知説が流行する中で早かった震災復興

 江戸時代は火災だけでなく、巨大地震も多く発生しました。

 なかでも、1707(宝永4)年に起きた「宝永地震」は、富士山の大噴火につながったことで知られています。富士山から噴出した火山礫(かざんれき)や火山灰などは、江戸や房総半島にまで降り注ぎました。

 1855(安政2)年に発生した「安政江戸地震」も、歴史に残る大地震です。荒川の河口付近を震源としたマグニチュード6.9と推定される直下型の地震で、本所、深川、浅草、下谷といった地盤の軟弱な地域を中心に民家の倒壊1万4,000戸といわれる甚大な被害を出しました。

 安政江戸地震の直後、江戸の町で奇妙な錦絵が評判になりました。それは、地下の大ナマズを描いた「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれる風刺画です。当時は地震のメカニズムがよくわかっていなかったため、人々はナマズが地下で活動することで地震を起こすと信じていたのです。ナマズは人々の崇拝の対象となり、庶民は身を守るお守りや、不安を取り除くおまじないとして鯰絵を競って買い求めました。

 迷信が流行した安政江戸地震ですが、その復興はこれまでの震災を教訓に素早く行われました。幕府は地震の当日に早くも、握り飯などの炊き出しを行うこと、仮設避難所を設けること、買い占めを禁止すること、物価や人件費の値上げを禁止することなどを決定しています。

 特に「お救い小屋」と呼ばれる仮設避難所には、火災の際に破壊消防を行ったのちに、壊した家をすぐに復旧できるように材料がストックされ、建設方法もマニュアル化されていたため、早期に建設することができました。

 このように、江戸の人々は限られた条件の中でも、大災害が発生するたびに組織を整え、町を整え、計画を整えながら、“防災都市”を築き上げていきました。災害を糧にするこの姿勢には、現代の私たちがこれからの防災・減災対策、BCPを考える上で見習うべきヒントが多くあるのではないでしょうか。

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