本日5月1日から、「令和」という新しい時代の幕が上がりました。令和の出典となったのは歌集「万葉集」。万葉集を読むことで、日本の原点に触れることができるといいます。一体どういうことでしょうか。今回は、そうした万葉集の魅力について紹介します。
全20巻の中に多様な階層の歌を収録
万葉集は、1200年以上前に完成した日本の最古の歌集です。全20巻あり、約4500首の歌が収められています。そこには、五・七という句を3回以上反復し、最後に五・七、七となる「長歌」、五・七・五・七・七という合計三十一文字で構成された「短歌」といった和歌が収録されています。
そうした歌の作者は実にバラエティー豊かです。皇族や貴族、役人といった上流階級を中心に、東歌(あずまうた)と呼ばれる東国方言の庶民が詠んだ歌、九州を守る防人(さきもり)の歌まで、実に多様な階層の人々が作者として名を連ねています。
しかし、作者不詳のものも多く、万葉集に名前が残っている歌人は500人ほどしかいません。さらに、名前が分かっていても、詳しい経歴などの情報が残っていない人物が大半です。
例えば、歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、万葉集に約90首と多くの歌を残しており、質と量で群を抜いていることから歌聖と称されています。しかし、その生い立ちや経歴について詳しく分かっていません。自身が万葉集に残した歌から、持統天皇(645年~703年)の行幸に随行したことや、下級役人として地方へ出向していたことがわずかに分かるのみです。ちなみに、令和の出典も誰が作者か分かっていません。
令和の誕生につながる「梅花の宴」とは
そもそも令和の出典とは、どのようなものなのでしょうか。それは、万葉集に収められた歌…、ではなく、歌が詠まれた状況などを説明するために付けられた序文の中にある下記の一文です。
初春の令月(れいげつ)にして/気淑(きよ)く風和ぎ/梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き/蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す
文学者の中西進氏の現代語訳では、「時あたかも新春の好き月(よきつき)、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」となっています。
先ほども述べたように、この一文の作者が誰なのかはっきりしませんが、生まれた背景は分かっています。
序文は、当時大宰府の長官として出向していた大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で開かれた宴の模様をさわやかに表現したものです。この宴は「梅花の宴」と呼ばれ、そこで来客者たちによって詠まれた歌が32首、万葉集に収録されています。現代に置き換えてみると、単身赴任中の上司を、部下や仲間が歌で慰めたといったところでしょうか。
当時は、このようなプライベートの宴だけでなく、公的な宮廷行事でも和歌が盛んに交わされており、万葉集に多く残っています。
一体だれが編纂したのか!?
実は万葉集を誰か編纂したのかというのも、はっきりしていません。
その編纂には長い時間の中で多くの人が携わったと考えられており、特に大伴家持(おおとものやかもち)が深く関わったといわれています。これには理由があります。
万葉集に収録されている歌は、飛鳥時代の舒明天皇の治世から、奈良時代の天平宝3(759)年にかけての130年の間に作られました。
その中で、万葉集の一番最後を飾る歌が天平宝3に詠まれた家持の作品であること、20巻あるうち、最後の17巻~20巻にかけては、家持自身の歌あるいは家持の身近な人の歌が中心の構成となっていることなどから、大伴旅人が万葉集の編纂で重要な枠割を果たしたと考えられているのです。
なお、家持は、「梅花の宴」を開催した大伴旅人の子どもで、万葉集に最も多くの歌を残しています。万葉集を締めくくる家持の歌を紹介します。
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
これを現代語訳にすると「新しい年の初めとなる正月に降る雪のように、良いこともたくさん起きてほしい」となります。万葉集の最後に未来への希望を願う歌を持ってくるとは、粋な感じがします。
古さゆえに謎も多い万葉集ですが、当時の様々な階層の人々が詠んだ、実に多彩な歌が収められているのも特徴であり、日本の原点に触れられるような歌集になっています。そうした歌からは、上代の人々がどのように生き、どのように心を動かしていたのかを垣間見ることができます。新しい時代の幕開けをきっかけに、万葉集に親しんでみてはいかがでしょうか。
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